震災復興は進んでいるか 宮城県東松島市、野蒜地区を再訪

2013年10月08日

 東日本大震災から2年半以上の月日が流れた2013年10月上旬、被災地の様子をこの目で見ようと、宮城県へ向かった。目的地は、仙台市内から北へ30キロほどに位置する宮城県東松島市の野蒜(のびる)地区。震災直後に一度訪れたことがあり、その後の復興が気になっていた。再訪した野蒜駅では、震災当時の様子を伝える「語り部」たちとの出会いも待っていた。


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始まった震災復興

 2013年10月5日早朝、JR仙台駅から、仙台市と石巻市を結ぶJR仙石(せんせき)線の電車に乗り込んだ。40分ほどで日本三景の一つとして知られる松島への玄関口、松島海岸駅に到着した。ここから先の石巻方向へ向かうためには、代行バスに乗り換えなければならない。JR仙石線は、松島海岸駅の隣の高城町(たかぎまち)駅から陸前小野(りくぜんおの)駅までの区間が、2013年10月現在でもなお不通になっているためだ。

 野蒜駅はこの不通区間の中にある。ジャージー姿の高校生らとともに松島海岸駅前から代行バスに揺られ、15分ほどで野蒜駅前に到着した。

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【写真1】野蒜駅(いずれも2013年10月5日撮影)

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【写真2】野蒜駅のホーム

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【写真3】駅前の東名運河にかかる橋

  2階建ての1階部分が津波で流された野蒜駅舎は、出入口の部分が板でふさがれ閉鎖されていた。震災直後の2011年5月、筆者が野蒜駅を初めて訪れたときは駅舎の時計が止まっていたが、このときは正しい時刻を示していた。それでも列車の来なくなったホームには、津波の力で歪んだレールや、倒れたままになっている架線の電柱などが目に付いた。
 野蒜駅前の東名運河にかかる橋の欄干も、曲がったままだ。これらの様子を見ているうちに、震災直後に野蒜駅を訪れたときの記憶がよみがえった。当時はガレキの撤去や津波が運んだ泥をの除去で、駅周辺はほこりや砂煙がもうもうと立ち上り、マスクが必要なほどだった。駅前の県道27号線は、ガレキ運搬のダンプカーや、災害派遣の自衛隊や全国各地からの自治体の車両などが、ひっきりなしに走っていた。

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【写真4】野蒜駅周辺で行われているベルトコンベアの設置工事

  2年後の今は、深呼吸すると潮風を感じられるほど、周囲は落ち着きを取り戻したかに見えた。しかし野蒜駅周辺には、建物の基礎部分だけを残したり、整地された土地が多くなっていた。人々がかつて暮らしていた痕跡はススキに覆われ、コスモスが初秋の風に揺れていた。

 それでも復興のための大規模な工事は、着々と進んでいた。野蒜駅周辺では、長大なベルトコンベアの設置工事が行われていた。宅地移転のため、高台の造成工事で生じた土砂を、低地へ効率的に運び出すという。JR仙石線の復旧工事も少しずつ進んでいた。震災復興は、やっと軌道に乗り始めたように感じた。


「パラソル喫茶」の語り部たち

「お茶っこ飲んで、時間つぶさい」。JR仙石線の野蒜駅前から、東北弁の呼び声が聞こえてきた。気さくに声をかけているのは、伊藤寿美子(いとう・すみこ)さん(64歳)。臨時の喫茶コーナーを野蒜駅の一画に設け、毎週土曜日にコーヒーやお茶を無料でふるまう。その名は「パラソル喫茶」。

  「野蒜駅の近くに住む人たちに辛い経験を語ってもらって、少しでも気持ちを軽くすることができた」。そんな思いから、自らも被災者の伊藤さんはパラソル喫茶を始めたという。

  伊藤さんは、野蒜駅のある宮城県東松島市内で、高齢者向けのグループホームや宅老所を運営するNPO法人の理事長。2011年3月11日、野蒜駅の隣にある東名(とうな)駅近くにあるグループホームなどが被災した。「最初にゆっくりと揺れが続いて、その後に激しい揺れが来た」。そして津波警報が発令された。

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 【写真5】野蒜駅で毎週1回開設する「パラソル喫茶」

 「高台へ逃げなきゃ!」。車いすを必要とするお年寄りを、職員で手分けして車に乗せて、近くの高台へ避難した。「幸い、うちの利用者は全員無事でした。でも、近くの特別養護老人ホームでは亡くなった人もいて・・・」。伊藤さんの声が詰まった。

  伊藤さんのグループホームなどの建物は、一部が倒壊したり、津波で2階建ての1階部分が天井ほどの高さまで浸水した。余震も続いた。電気、ガス、水道のライフラインが寸断された。さらに福島第1原発で爆発事故も起こった。「何よりも余震が怖くて、眠れない夜が続きました。放射能の影響も不安でした」。伊藤さんとともに、パラソル喫茶でお茶を出している職員の阿部喜美子さん(65歳)が話す。

  大地震の直後、携帯電話はつながりにくい状態が続き「懐中電灯の代わりにしかなりませんでした」と阿部さんが振り返る。ろうそくの明かりで生活し、ラジオの安否情報に耳を傾ける毎日だった。高台にある自宅が被災した阿部さんは、ブロックを積んで「かまど」を作り、樹木の枝などを燃やしてご飯を炊いた。「まさにサバイバル生活でした」

  不自由な生活を強いられているとき、全国各地からのボランティアが手を差し伸べた。東京の大学生が、施設内部の泥をかき出した。「震災後、すぐに北海道から福祉関係のボランティアが来てくれて、本当に助かりました」。北海道のボランティアは、介助が必要なお年寄りの移送サービスなどを提供したという。札幌市のNPO法人からは、今も毎月欠かさず30キロの米が届けられる。「とても感謝しています」と、伊藤さんがうれしそうに話した。

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【写真6】パラソル喫茶では被災したグループホームや宅老所の写真も展示。「震災当時の様子を伝えたい」と話す伊藤さん


「野蒜で暮らしていきたい」

 伊藤さんの夫の幸男さん(68歳)が運転する車で、野蒜駅から車で10分ほどの「新町(しんまち)」も案内してもらった。近くを流れる鳴瀬(なるせ)川の河口付近の堤防に上がり、周囲を見渡すと、緑色の景色が広がっていた。目を凝らすと、建物の基礎らしき枠組みもいくつか見えた。「今は草ばかりだけど、ここには集落があったんだ」。幸男さんがつぶやいた。

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【写真7】野蒜駅から車で10分ほどの場所にある新町。左上の松林の先に太平洋が広がっていた

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【写真8】鳴瀬川の河口の堤防に設けられた「津波到達高」。高さ7.8メートルの津波が押し寄せたことを伝える

  東松島市によると、同市の人口は、震災前の2011年1月1日時点で4万3156人だったが、2013年9月1日時点で4万344人。震災で1107人の市民が亡くなり、今も26人が行方不明だという。

  「野蒜地区には2軒のコンビニと、1軒のスーパーがあったけど、今はみんな無くなった。車で20分くらいの隣町まで、買い物に出かけている」と伊藤さん。「それでも住み慣れたこの町で、この先も暮らしていきたい」。それが希望だ。

  そんな伊藤さんの夢は、子供たちが安心して暮らせるような、かつての野蒜を取り戻すことだ。その夢を、筆者も応援したい。今後も仙台を訪れたら、必ず野蒜に立ち寄りたい。1日でも早い復興を願っている。

(電子メディア局・編集グループ・渡辺拓也)

 伊藤さんは「すみちゃんの家~被災地の高齢者福祉の現状~」と題したブログで、被災地の状況や復興の様子をつづっている。アドレスはhttp://blog.canpan.info/sumichan/

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