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岩見沢市民大学に行ってきました。

2009年08月29日

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 ご報告が遅くなりましたが、岩見沢市民大学の講師を務めてきました。
 8月22日。市民大学は18時30分からでしたが、岩見沢では行きたい所があったのです。ですから早くに出かけ、北村温泉の強塩泉で体を除菌し?岩見沢駅前の天狗まんじゅうで買い物をし、長年お世話になっている石田スポーツ店にご挨拶させていただいたのです。
 市民大学での講演テーマは「スポーツは人生をデザインできるか? みんな、岡部に学ぼうよ!」というものです。
 スキージャンパー岡部孝信君は高校時代、駒大岩見沢高に在籍し、この町で3年間を過ごしたのです。彼の原点は岩見沢にあるのです。だからこそ、この町で彼の凄さを改めて訴えたかったのです。
 駒大岩見沢高卒業後、拓銀入社、拓銀破綻後雪印乳業に入社。1994年、リレハンメル五輪ジャンプ団体戦銀メダル。1995年、サンダーべー世界選手権ノーマルヒル金メダル。1998年、長野五輪ジャンプ団体戦金メダル。当時は低速ジャンプでは世界一と言われた選手でした。
 長野後、ルール変更で使用スキーの長さが短い物を使わざるを得なくなり、失速。暗黒の時代を経験することになったのです。2009年、11シーズンぶりに彼はワールドカップで優勝。38歳での優勝は史上最年長での優勝となりました。このとき、2位のアマン、3位のマリシュは仲間たちにカメラを渡し、岡部との記念撮影をせがんだそうです。そのぐらい、岡部の優勝は世界のジャンパーたちからも驚きと尊敬を集めたのです。
 私は彼の持つ力を知っています。だからそれを伝えたいのです。
 市民大学の受講生のみなさんは、うなずき、涙しながら、聞いてくださいました。
 スポーツは人生をデザインできると信じています。
 もし、「もっといい汗いい話」を聞いて、心を感動の涙で洗いたいとお考えの方々が居られれば、私の講演を聴いてみませんか? 私は、事実をそのままお伝えします。誇張はいたしません。事実の重さと迫力は必ず皆様の心に届くと信じております。
 写真は、岩見沢市民大学でのパンフレットです。

ザイラーさん、あなたに憧れて

2009年08月27日

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 1956年、イタリア・コルチナダンぺッツオから衝撃のニュースが飛び込んできたとき、私は9歳だった。日本、猪谷千春銀メダル。優勝はトニー・ザイラー(オーストリア)。しかも、ザイラーは三冠王だという。この瞬間から私の夢は、スキーの五輪選手で打倒ザイラーとなった。
 ザイラーは1958年世界選手権でも三冠王(滑降・大回転・回転)。その年に引退。芸能界入り。
 1959年の「黒い稲妻」「白銀は招くよ」の両映画は、日本にスキーブームを巻き起こした。
 ザイラーと握手したのは、1974年サンモリッツ世界選手権大会のコーチ会議のときだ。全日本コーチで参加した私の前には、オーストリア監督のザイラーがいた。それは世界最強アルペンチームであるオーストリアをつくりあげた、名監督ザイラーの姿だった。
 五輪でも世界選手権でも、ワールドカップでも、コーチ会議が紛糾したとき、議長が最後に意見を求めるのはザイラーだった。彼は芸能人ではなく、競技の世界の人だった。
 気が付けば9歳からザイラーの背中を追い続けていたのだ。
 73歳で亡くなるのは早過ぎると思ったら、悲しくなった。

一球入魂的決勝戦

2009年08月25日

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 野球の格言
 1、野球は二死から。人は、絶体絶命をどう考えるか?弱気になるか、強気で立ち向かうか?繋ぐ意識の強さが問われる最高最終場面のこと。
 2、野球は、ボールが人の居ないところに行けばヒット。どれだけ強烈なライナーでも、人の居るところに飛べばアウト。
 3、野球の守備位置は、打撃によるボールの飛ぶ確率の高いところをいう。
 4、高校野球、甲子園決勝、最終回二死、10-9と肉迫し、最後の打者の超強烈なライナーが三塁手の正面に飛び、試合終了。あのライナーのスピードなら、あと1m横に飛んでいれば、、、スポーツの世界には「たら、れば、なら」はないが、今後100年間は語られるだろう。
 5、試合終了直後、両軍選手が笑いながら抱き合い、応援団が泣きながら笑いあうのは、一球入魂的決勝戦であったことの証明である。
 6、あらためて、野球の父、正岡子規の碑を添えて、優勝校 中京大中京高 と、準優勝校 日本文理高の崇高なる決勝戦に栄誉を贈りたい。

野球対インフルエンザ

2009年08月20日

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 新型インフルエンザが再び感染拡大の兆しをみせ、北海道日本ハムファイターズではすでに4~5人の選手が感染した。
 高校野球やインターハイのバレーボールなどでも、選手の感染により欠場や不戦敗も起きている。
 うがいとマスク、手洗いがあらためて必要になっている。
 甲子園では島根代表、初出場の立正大しょう南高校が4人の感染者を出し14人のメンバーで戦い、逆転勝ちでベスト8に進出した。ポジションをやりくりして戦ったが、不慣れな守備位置でいつもとは景色が違ったという。それ以上に切実だったのは、朝起きるのが怖かった、自分が感染していたらどうしようというコメントだった。
 私の長男のお嫁さんは、横浜の中学校の体育教師だが、このチームに教え子がいるのだという。
 「昨日は教え子が甲子園に出て見事サヨナラ勝ちしました。頑張っている姿を見ていると私も元気になります。また応援できるのが楽しみでしょうがないです」
 1回戦は1-0のサヨナラ勝ちで、その直後にきたメールだ。高校野球のもつ力と繋がりの証明だ。
 私は札幌第一高の応援に声を枯らしたが、ふるさと繋がりだけでも盛り上がるのだから教え子が出場したらたまったものではない。
 プロ野球では登録抹消からの復帰期間の短縮など検討しているが、高校野球でも非常時には選手の追加なども検討すべきだろう。
 写真は、日本野球のふるさと、正岡子規球場だ。上野公園のなかにある。子規が、「まりを投げたき草の原」と詠んだ場所だ。正岡子規と野球の関わりは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい。
 この秋からNHK大河ドラマでも「坂の上の雲」が始まる。
 野球とは、子規がなずけた言葉だ。
 スポーツマンだけでなく、人類がインフルエンザと戦う必要がある。

咲く花、散る花、日陰にも花

2009年08月19日

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 「ボルトって、なんボルト?」
 9・58秒? 時速44・6KM! 秒速12・4M!
 9・4秒台も見えてきたとか!?
 194cmの長身で、9・58秒だなんて、そんな! 何も言うことはありません。はい!
 ジャマイカにはバレーボールとか、バスケットボールとかは無いのかねえ? 普通はどちらかでしょう!! 日本ならもちろん、バレーかバスケかだし、、、
 人種とか骨格とか筋繊維とか、違いを挙げればきりがありません。いいじゃないですか、日本にはリレーがあります。ジャマイカやアメリカだって、超一流が4人揃うと言うことは至難の業。一流半だって4人揃ってなおかつバトンパスが正確で素早ければ、戦えるのです。狙いは銅メダル!もちろん、それ以上は申しません。
 大体ね、まっすぐ100m走るのが速いからって、どうだっていうの? かくなるうえは、小学校の運動会の正式種目「障害物競走」を採用してもらおうじゃないの。塚原選手なんて速そうだよ。
 陸上の記録なんて、簡単には更新されるものではありません。ベルリン世界陸上参加の日本選手たちは、常に繋ぎのために参加しているのです。これこそが日進月歩の努力なのです。
 女子10000mの佐伯選手、よかったねえ!142cm、29kg、先頭から2週遅れながら、懸命に完走した姿がスタンディングオベーションをよんだのですよ。北海道マラソンにも来ますよ。
 正にベルリンは、咲く花、散る花、日陰にも花。
 ほら、2001年の湧別、上湧別講演でいただいたチューリップだって、毎年咲くのですから。

花に学ぶこと

2009年08月14日

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 先日、北海道新聞にこのブログが紹介されたときのコメントに「花の写真が添えられることが多い」と、ありました。その理由は、2001年湧別・上湧別での講演のときにいただいたチューリップの球根にあるのです。咲いたのですよ!札幌でも、東京、大阪でも!感動でした!
 さて、野球とソフトボールの復活はなりませんでした。ゴルフと7人制ラグビーが最終選考にまわりました。関係者は悲喜こもごも。選手は涙を流す者もありましたが、落選競技の関係者の方々のコメントは一様でした。つまり「関係者一丸で活動してきたのに、、、」 
 五輪競技採用条件は4大陸75カ国以上の実施など、決められています。各競技の世界連盟は、本当に普及活動に熱心だったのでしょうか?
 五輪大会はもはや商業主義なしでは、成り立ちません。言わばTV受けするかどうかも、重要な採用条件なのです。と、同時にIOCが進める反ドーピング運動に理解がなければなりません。その意味では野球は無理でした。アメリカ大リーグでは長らくドーピングチェックがされず、今もその悪影響が続いています。
 また、競技やそのルールも見直してみる積極性が必要です。7人制ラグビーは7~10分ハーフです。
ですから一日に何試合も組むことが可能ですし、体の大きな選手以外に小さな選手も活躍できるのです。これは、競技の見直しと普及を考えた結果の勝利です。
 野球は、どうしても9回やらなければだめなのですか?北京五輪では延長戦でのタイブレークを採用し
時間短縮を図りました。高校野球が支持されるのは一試合が2時間以内に終わるからではないですか?
 柔道も、効果が廃止されました。それによりスピードアップとわかりやすさが増したのです。組み手争いで試合時間の半分以上が費やされては、TV向きでないと判断されるおそれがあったからです。
 スポーツ関係者の皆様。ルールは変えられるのです。安全性、公平性、を基にすれば娯楽性、短時間性、スポンサー獲得性、TV放映性も認められるのです。
 花に水をやり続けてください。必ず花は咲くのですから。

五輪戦士の旅立ち

2009年08月10日

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 7日、朝早くに電話が鳴った。「秋元で~す」「おう、正博か、どうした?」「訃報です」「なに!だれ!」
「藤木良司さんです」 私は弾かれたように飛び起きて、腰に痛みが走った。
 新潟県津南町初の五輪代表。クロスカントリースキーの名選手だった。日大から地崎工業、東京美装。骨髄性白血病で7日に旅立った。享年58歳4ヶ月。
 1976年インスブルック冬季五輪、ジャンプチームワックスマンとして参加した私の仕事場は馬小屋だった。藤木は毎晩、そのワックスルームに通ってきた。ワックスマンがいなかった彼らは、私の横で自分で作業するのだ。止めワックスでなく、滑走ワックスについては、私にアドバイスを求めてもきた。
 深夜まで作業する私のために、馬小屋で彼が作ってくれた具のないストレートラーメンは絶品だった。
 肩の中にアメラグ選手の防具が入っているかのような、肩幅があった。私はひそかに「雪のショルダーアタック」と呼んでいた。
 体の厳つさとは裏腹に、笑顔は最高だった。笑顔の彼に接すると誰も彼が全日本チャンピオンや五輪代表という競技者だったとは分らなかっただろう。
 弔辞の中に「もう、あの歌が聴けないかと思うと、、、」とあった。同期の連中に聞けば、スキー界では3本の指に入ったという。しまった。聞き逃した。俺たちの青春時代には「カラオケ」は無かったもな。
 復帰を目指して、病院の廊下を何往復もしていたという。誰より本人が無念だっただろう。
 お盆近くに亡くなる人は、もともと善人だと聞いたことがある。誰もがお盆が近づくと思い出すからだという。藤木には当てはまる。
 無念を捨てて、遥かなる津南や北海道やオーストリアの雪原で生きろ。
 大丈夫だ、3人の息子も嫁さんも孫もしっかりしている。母親もおばあちゃんも、彼らが守るよ。
 りょうじ と りゅうじ は響きが似ている。
 俺たちは仲間だった。馬小屋のストレートラーメンを忘れない。

先生の教え子で幸福です

2009年08月06日

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 私にとって最初の恩師は札幌幌西小学校2~3年時の担任だった宮崎恒子先生だ。
 先生はスキーの指導員で、山鼻生まれの私にとっては最初のスキーコーチだ。先生にはたくさんほめられた。俳句を教えられ、お話が上手と言われたが、考えてみればスキーの道に進み人前で講演させていただけるのも先生のお陰なのだ。
 「いい汗いい話」に宮崎先生のことを、「恩師を慕うこどもの日」と書いたのは98年5月7日のことだ。
 そのコラムが08年10月25日、NHKラジオ もぎたてラジオ便北海道で朗読され、さらに09年6月27日のNHKラジオ深夜便でも放送されたのだ。この日は札幌発の深夜便だった。
 宮崎先生は今月、82歳になられた。深夜便は午前2時の放送だったから、先生には伝えなかったのだが、先生の友人の方々から続々と電話が来たらしい。
 あらためて先生にはテープと母の写真、初孫の写真などを送ったが、先生が送ってくださったものを見て目頭が熱くなった。「67年ぶりに書道をはじめました。小学生のような字ですが、見てくださいね」と、あった。笑顔を忘れないで、そうすれば幸福になれる。そして歓喜の扉が開かれる。そう読み取れた。
 62歳になってなお恩師からお手紙をいただけて、書のプレゼントをいただけるとは、何たる幸福か。
 人生のスタートの段階で先生の教え子で良かった。
 人生の後半を過ぎても先生の教え子で良かった。

レベル高いぞ、北海道中学バスケ

2009年08月05日

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 3~5日、きたえーるで行われた第39回北海道中学校バスケットボール大会を取材しました。
 いやあ、参った!レベルの高いこと!
 私だけの感想じゃありません。ほんとに嬉しいことに会場で中村先生にお会いしたのです。その中村先生も「いやあ、レベル高くなったよ」とおっしゃったのです。
 中村先生とは、、、今から36年前の全道高校バスケットボール大会決勝を戦ったのです。中村先生は当時、常勝光星高校の3年生のセンター、私は新興旭丘高校のフォワード。この決勝戦であろうことか旭丘は6点差で王者光星を破ったのです。
 36年の歳月はすべてを懐かしさに変えてくれて、今回の取材では現在の北海道バスケットボール界の重鎮の中村先生が解説役を務めてくださったのです。
 男子優勝は帯広緑園中、2位は札幌北陽中、3位は札幌中央中と当麻・愛別中。女子優勝は札幌清田中、2位は北星女子中、3位は旭川神居東中と網走第2中でした。それにしても準決勝、決勝は高校バスケットと見間違うほどのレベルなのです。
 男子決勝を見ていると、36年まえのあの日が蘇るのです。まして、横には中村さんがいるのですから。「ガードの山崎さんはお元気ですか?」と聞けば、「元気だよ。今も浦臼にいてさ、この間浦臼名産のメロンをドカンと送ってくれてさ、ばあちゃんとこ、もっていけってね」、、、。
 その中村先生からの最高のアドバイスを受けて、私は信じられないもの?を見たのです。
 札幌中央中には三つ子のバスケット選手がいるのです。志村3兄弟、もちろん3人とも3年生!?
 時宗・真宗・高宗の三君は一卵性ですから顔も体格(174CM)もそっくり!しかも、三君ともスタメンで出てくるのです。写真は準準決勝の対千歳向陽台中戦のもの。右から二人目と六人目、そして七人目の動き出している選手が3兄弟です。しかもしかも、揃いも揃ってうまいのです。
 私の初孫が双子姫だというと、「それなら絶対見なきゃだめだわ」と中村先生。かくして貴重な、バリバリ動き回る3兄弟を見せていただいたのでした。
 私の中学時代には中学校の全道大会・全国大会はありませんでした。私が高校に入った年から始まったのです。ですからバスケットボールの全道中学大会は今年が39回目。見ていると、私の高校時代よりはるかに上手だと思います。選手のやる気、保護者の理解と努力の結果ですが、それらを超えて中村先生のような指導者の情熱が続いた結果なのでしょう。
 志村3兄弟が揃って全日本のメンバーになりスタメン入りし、あとの二人は双子の竹内兄弟(205CM-現在の全日本の中心選手)となれば、すごいだろうなあ、と思いながら会場を後にしました。

夢を掴め、氷上最速の勇者たち

2009年08月03日

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 かって、全日本スキー連盟アルペンコーチとしてダウンヒルチームを指揮していたころ、私の持論は「日本人はダウンヒル競技で勝てる」というものでした。
 私が富井澄博、片桐幹雄選手らとワールドカップを転戦したのは、1972年札幌冬季五輪後のこと。
 札幌対策の強化体制のなかで実力をつけた富井選手は、ワールドカップ最高12位、しかもタイム差は優勝者と1秒、中間からゴールまでの計測では2位のタイムというレースもありました。
 ダウンヒル(滑降)競技は、平均時速105KM、最大速度130KMの中での、全身統治能力、つまり巧緻性が問われ、体の大きさ・筋力の強さだけではないのです。同時に私が願っていたのは、日本国がオーストリア・スイス・フランスなどのアルペン強国のように、国を挙げて取り組めば絶対に勝負できるというものでした。なぜなら、日本の工業技術力、先端技術力を挙げてスキー開発、滑走面素材開発、ワックス開発が可能になれば、負けないと思ったからなのです。
 後年、ダウンヒルウェアではフランス・スロベニアが日本製で勝ち、ロシアが日本製のダウンヒルスキーで勝ったことをみれば、私の持論はその可能性を証明されたのです。

 北海道新聞7月15日に「五輪へ夢乗せ・町工場発」「リュージュ日本代表に届け・札幌の2社 新型そり開発」と言う記事(報道本部 松本創一記者)が掲載されました。しかも、宇宙航空研究開発機構(JAXA)と協力し、人工衛星用カーボン繊維素材の活用のため、そりに最新素材が提供されるというのです。JAXAといえば、宇宙長期滞在から帰還した若田光一宇宙飛行士の所属先です。
 ダウンヒルスキーもグラスファイバーからカーボンファイバーに進化しましたが、「そり」も宇宙素材のカーボンファイバーなのです。
 これは詳しく知りたいな、と思っていたら、嬉しい電話が入りました。札幌リュージュ連盟の御園生 哲副会長は、旭丘高校バスケット部の同期で全道優勝時の仲間なのです。
 そして手稲星置スケート場での全日本合宿を見学できたのです。もちろん、普通のスケートリンクでの合宿ですから、スタート練習と新型そりの滑走実験だけではありましたが、スタッフの努力で報道陣も集まりました。
 JAXAと札幌の町工場(そりの設計と各パーツの型作りは遠藤木型・パーツの製造と組み立ては三島工業)が連携し、オリンピックを目指すのは何と壮大な夢であることか!

プロフィール

プロフィール

伊藤 龍治
1947年札幌生まれ。札幌啓明中では夏は野球、冬はスキー。旭丘高では夏はバスケット、冬はスキー。「スポーツ二毛作」実施者。早稲田大でスキー。日本初のアルペンサービスマン、世界初のジャンプワックスマンは自称ながら事実。スキーで4年おきの「骨折五輪」に3度出場。全日本アルペンコーチ。北海道新聞に「いい汗いい話」を12年半執筆。テレビ、ラジオ、講演などスポーツジャーナリストとして活動中。

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