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講演会のご案内

2009年02月28日

画像の確認
 札幌大学地域スポーツ、文化総合型クラブ設立記念講演会へ、いらっしゃいませんか。

 平成21年3月8日、11時~12時15分 札幌大学プレアホール(2号館3階)
 演題 「スポーツと文化がもつ力」
      大学が変わる、地域が変わる、人が変わる
 対象 小学生~大人まで全ての方 
 参加料 無料
 申し込み方法 meez@ofc.sapporo-u.ac.jp
氏名又は団体名、 住所、電話番号、人数、をご連絡ください。
 私にとって、一般公開型の講演は数少ないため、どうぞお誘いあわせのうえご来場ください。
 写真は、2007年ノルディックスキー世界選手権大会の会場になった、札幌ドームです。
 発想転換こそ未来を拓く鍵です。2003年に提案していた通り、札幌ドームはスキー会場になったのです。

ああ、感激の金メダル

2009年02月27日

 2位ドイツとのタイム差0秒0、3位ノルウェーとは3秒6。
 ゴールは写真判定。その結果は靴1足という歴史的な勝利での金メダルでした。
 かってはジャンプで引き離し、クロスカントリーで逃げ切るという日本の戦い方でしたが、度重なるルール改正で日本の優位性は消されたものでした。
 それがなんと、ジャンプの成績5位からクロスカントリーで追い上げての優勝です。これを見事と言わずして何を言うのでしょうか!
 それにしても複合団体は1ヵ国4名でのリレー競技。おそらく多くの方は北京五輪の400mリレーを思い出したことでしょう。超一流でなくても、一流が4人揃えば闘えるのです。
 忘れてはならない大事なことがあります。
 今大会の日本のワックスマンの大活躍。そして走力を高め、一流を複数育て上げた河野孝典コーチの存在です

 河野孝典専任コーチは、自らも金メダリストですが、自分たちの時代の戦い方にとらわれず、新時代に対応する選手を育てあげました。立派です。
 今日、東京は雪が降りました。お祝いの白星のように。
 さあ、北海道、東北、上信越のみなさん、スキー選手を育てましょう。
 来年は、バンクーバー冬季五輪イヤーです。 冬季五輪も面白いのです。

なまら、すげえ の四等賞

2009年02月26日

 いやあ、驚いた! 驚天動地の大ニュースだよ、これは!
 チェコのリベレツで行われている、ノルディックスキー世界選手権で日本チームが4位入賞だよ!
 女子距離団体スプリント、クラシカルで、共にJR北海道所属の夏見円と石田正子選手がやりました!
 何が凄いって、日本はノルウェー、カナダ、ドイツ、カザフスタン、ロシアより上にいったんだよ。
 1位はフィンランド、2位はスウェーデン、3位はイタリア、日本はイタリアとのタイム差わずかに1秒4。
 スプリントはね、1,3キロを一人3回、合計6周する。公式成績表をみて、またびっくり。最後の1周で石田正子選手が1位、夏見円選手も4位なんです。
 来年のバンクーバー冬季五輪が楽しみです、はい。

 今回の4位入賞は、実は別の意味でも凄いと思うのです。
 それは、二人の所属が北海道を代表する企業「JR北海道」だということです。世界的経済悪化のなかで、スポーツチームをもつ企業が続々と廃部を発表しています。そんななかでクロスカントリースキーのJR北海道、陸上のホクレンなど、北海道ゆかりの企業が頑張っているのです。
 JR北海道もホクレンも活躍するのは女性たちで、北海道の男はどうしたの?と言われそうですが、企業チームを維持運営し、その結果世界的な活躍に繋がるということは素晴らしいことなのです。
 特に冬の競技を支援する北海道企業があるというのは、素晴らしい。夏見さんも石田さんも女性ではあるけれど、イメージは雪を蹴散らしぐんぐん進む機関車、ラッセル車だねえ。
 北海道の企業さま、道産子スポーツマンを支援しましょうよ。それが、必ず社内の活性化に繋がり、対外的にもイメージ向上に繋がりますよ。企業の活性化は、地域の人々をどれだけ味方につけれるかにかかるのです。企業の広報大使が、美しくしなやかで、そして強ければ「なまら、すげえ」になるのです。

がんばれ歌志内、消すなかもい岳の火

2009年02月25日

 あなたは、読んでくれましたか?
 北海道新聞の朝刊、2月17日~19日に掲載された「競技スキーの拠点に。歌志内かもい岳」を。
 これは北海道新聞滝川支局の奥天卓也記者の取材記事です。
 かもい岳レーシング代表の斉藤博氏は、私の1年下の知人です。奥天記者は斎藤氏から紹介を受けて私のところにも取材にこられたのです。
 現在、斎藤氏はペンション経営と同時にスキー場の指定管理者として、頑張っているのです。
 歌志内かもい岳は、アルペンスキー強化の拠点としては、長野県野沢温泉村に並ぶ国内の重要拠点なのです。歌志内かもい岳の火を消してはならないのです。
 野沢温泉村はスキークラブの歴史は85年になろうとし、村出身の五輪代表は24名もいる。

 野沢温泉村は、スキー場の経営は村営で自立の村だ。五輪代表にはアルペンもノルディックも含まれる。
 現在の歌志内市は、自立の基点をどこに、何に置こうとしているのだろうか?
 北海道にはスキージャンプを町の自立基点として成功した、下川町という成功例がある。
 北海道は長く雪と氷の超人たちを生み出してきた。北海道が元気でいるためには、冬のスポーツをさらに振興しなければならない。
 下川町の成功に謙虚に学ぶ必要がある。教育委員会が中心となり、市民を巻き込んだ「市営スキークラブ」を組織する必要がある。
 再度言うが、歌志内市は野沢温泉村に並ぶ日本国内の重要拠点なのだ。それは、市の財産だ。
 私は、歌志内市を応援する。斉藤博氏を応援する。取り上げてくれた奥天記者に感謝する。
 今シーズン、一度はかもい岳を訪問し、応援の声を直接伝えたいと思う。

心の時代

2009年02月24日

 人は、身近なひと、大事なひとの死に触れたとき、成長するのかもしれない。
 人は、必ず死ぬ。それは分かっていることだが、長寿を全うしての自然死ではなく、病死とか事故死では辛いものだ。
 辛さ、哀しさ、に対抗できるものは、時間だろうか。
 笠谷昌生氏の葬儀のあと、夜の便で東京入りした。飛行機のなかで、笠谷家の皆様に時間が優しく流れてくれるようにと祈ったが、難しいときもあるものだ。
 
 妻が旅立ってから、10ヶ月。
 時折り、喪失感というのだろうか、もはや居ないのだという感情がやってくる。

 時間の優しい流れのなかで、成長し得るなどとはまだまだ思えない自分を発見することがある。
 共に闘った東京のマンションに来ると、まだ残っている食器や箸、トイレに付けた添え木や風呂場の手すりなどが語りかけてくる。
 世界が恐慌という形で警鐘をならした、その本音は「心の時代」に戻れと言うメッセージだろう。
 自分は良く生きているか?人を傷つけはしなかったか?少しは成長したか?
 それら全てに自信のない自分を発見している、雨の続く東京にいる私だ。

一言からの感動

2009年02月23日

 笠谷のあに は、旅立ちました。
 いいお通夜、いい告別式でしたよ。もっとも あに は、神妙な私たちに、あの笑顔を見せながら、自分はチェコのリべレツで行われているノルディックスキー世界選手権の会場をのぞいたり、札幌荒井山で行われた少年少女のスキージャンプ体験会で声援したり、新潟で行われている国体会場で旧知の友達に会ったりしていたに違いありません。
 天国には国境はなく、速度は光速ですから自由自在に飛び回っていることでしょう。
 
 告別式の祭壇に、2月19日の北海道新聞朝刊の紙面が額に入れられて飾られました。
 その紙面には、道新編集委員荒木太郎氏の「黄金期支えた名伯楽」の記事にならんで、私が2001年11月22日に書いた、いい汗いい話「笠谷兄 努力で世界的コーチ」もありました。

 この記事が額に入れられ飾られたことは、これこそ北海道新聞社にとっては名誉なことです。
 7年前の私のコラムを、全文再掲載を考えた荒木氏とそれを許可した運動部長は、誠に温かな人たちだと思うのです。
 笠谷幸生ご夫妻に紹介していただき、笠谷昌生ご一家にご挨拶したとき、あに の娘さんがこうおっしゃったのです。「ああいうコラムを書かれる方は、どういう方なのか、一度お会いしたかった」 と。
 この瞬間、私は泣きそうになりました。ただただ、頭を下げておりました。

 葬儀に参列することは、自身を振り返り見て、特に心を洗い清めることにつながるのかもしれません。

世界的なコーチ「あに」を偲ぶ

2009年02月18日

 2009年2月18日 笠谷昌生(かさやあきお)氏 逝去。
 スキージャンプ界では、誰もが「あに」と呼ぶ。理由は8歳下の弟、幸生(ゆきお)氏がいるからではない。最大の理由は、実に素晴らしい笑顔で人に接するからだ。怒った顔は見たことが無い。深刻な顔も見たことが無い。要するに、人に接する時は全面受入態勢なのだ。私たちのような普通人にはまず無理なことだ。
 笑顔も良かったが、声も素晴らしかった。穏やかで優しく染みとおり、そして響きが抜群だった。
 「あに」が、その品格を作り上げたのは、明大を卒業して就職した羽幌炭鉱での労務課での仕事だったという。明日19日の北海道新聞朝刊に、2001年11月22日に私が書いた いい汗いい話「笠谷兄
 努力で世界的コーチ」が、再掲載される。この中で触れているが、炭鉱の仕事は厳しく危険性も多く、ゆえに炭鉱マンの健康管理、対話、冠婚葬祭の手伝い、家の修理、増改築の手伝い、家庭のもめ事の仲裁など、なんでもしたという。

 私にとって、「あに」は大恩人だ。ジャンプ選手もアルペンスキーが上手でなければ、助走をうまく滑られない、と言って私をジャンプ合宿に呼んだのだ。私は後にジャンプチームのワックスマンだが、最初はアルペンスキーの指導員だった。きっかけは「あに」が作ってくれたのだ。
 1995年カナダ、サンダーベイのノルディックスキー世界選手権にも、私は「あに」の金魚の糞状態でついていった。「あに」と海外に行ったのはそれが最後になった。
 惜しむらくは、もう絶版だろうが、2002年にでた徳間書店「英雄神話」4号に「笠谷兄弟の金メダル」を書いた。札幌五輪の成功と、街の発展、70mジャンプメダル独占の原動力は何であったのか?を書いた。
 いま、思うことがある。
 1972年札幌冬季五輪時の札幌は、人口100万人。今の札幌は人口198万人。
 私には、余市生まれの「あに」が、私のふるさと札幌を作ってくれたと、思えるのだ。 合掌。

試走者たちの金メダル 11年後の番外編

2009年02月16日

 昨日、TVで長野五輪ジャンプ団体戦秘話が放送されました。
 バンクーバー冬季五輪まで1年。また、昨日2月15日は、白馬で全日本ジャンプが行われ、東輝選手が原田、岡部選手が持つジャンプ台記録137Mに並ぶ飛距離で優勝。まことにタイムリーなことでした。
 1998年2月17日。朝早く、試走者(テストジャンパー)たちの控え室に原田雅彦があらわれた。彼は西方に「アンダーシャツか手袋を貸してくれ」と言った。西方は原田が忘れてきたと思い、シャツを渡した。次に原田は葛西のところへ行き、手袋を借りた。葛西も原田が忘れてきたのだと思った。
 西方が「異変」に気付いたのは、79,5Mの原田の「失敗ジャンプ」の直後だった。
 「原田は、4年前のリレハンメル五輪の僚友だった、俺と紀明の思いを背負って飛んでいる。俺のシャツと紀明の手袋を身につけて戦いに挑んでいる」

 試走者25人のリーダー西方は、そのことを試走者たちに伝えた。
 「中止になんかできないぞ」「絶対に飛ばせるぞ」  25人が、火の玉になった。
 「飛距離、出るって証明しろ。テレマークいらないから、飛距離稼げ」「準備早くして、次々に行くぞ。助走路の溝、護れ」

 公式会見での岡部の言葉。
 「いやあ、斎藤、船木と、喋ってたんです。おれら、第3グループでなくて良かったなあ、って。おれら三人なら、あの条件なら60Mがやっとです。あれは原田さんの上に飛び出すジャンプだから、79,5Mも行ったんです。だから、失敗ジャンプなんかではないんです」。
 それを聞いた海外のマスコミは、「日本ジャンプの強さの秘密は、チームワーク」と、打電した。

スポーツの未来

2009年02月13日

 世界経済の悪化は、日本のスポーツ界にも深刻な影響を与えている。
 企業の業績悪化が進むと、広告宣伝費や接待費を切り詰めることは当然だが、それにより企業チームが消滅することになる。もちろん、どの企業でも社内のスポーツチームは、広告塔的な性格を持っていることは否定はしない。
 私が今、注目しているのは、日本が昔から作り上げてきたノンプロ的な企業チームだ。終身雇用保証型の企業社員チームだ。チームに貢献できる間はスポーツに専念し、肉体的に貢献できない年齢になれば引退し社業に専念する。スポーツで培った集中力、チームワークは必ず企業の戦力になるものだ。
 この形態の企業チームとしては、主催するジャンプ大会が50回を迎えた雪印乳業、バレーボール男女の東レ、バレーボール女子の久光製薬 ETC
 

 こういう企業では、それぞれのスポーツが国技(社技)なのだ。理解は経営者だけでなく、社員にも及んでいて全社で応援支援するから強いのだ。
 日本のスポーツの未来はどうあるべきか?
 私は三通りの姿になると考えている。1は企業社員型ノンプロチーム。2はプロ野球、プロサッカーなどの純然たるプロチーム。3は地域の教育機関を頂点としたり、求心力とする地域総合型スポーツクラブだ。大学があれば大学が、無ければ地域の教育委員会や体育協会が担当するというものだ。
 スポーツは、やるだけのものではない。見る、応援する、支援することもスポーツだ。
 だからいずれも、地域住民に熱意と誠意が伝わらなければ、成功はしないだろう。

あとから、やってくるもの

2009年02月12日

 日本では、お祭りが近づくと神輿を蔵出しし、終わると蔵入りさせて「はい、ご苦労さん」とする風潮が定着している。スポーツの強化はそれではいけない、継続展開拡大拡充が大事なんだと、ある時ある場所で熱弁を振るったことがある。
 それを聞いた北海道新聞ブロガーのジミー竹内が言った。
 「いつまでも蔵入りしていないで、そろそろ蔵出ししてもいいんじゃないですか?」
 そう言われて、きょうから道新ブログを始めることにしました。

 昨夜、一通のFAXをいただいた。
 生田原町時代、私の講演を三度も企画してくれた高橋さんからのものだった。
 「いい汗いい話が昨年の5月8日で終わってからは、先生のHPを拝見していました。先生のコラムが終了したあとに、北海道新聞に別添の記事が記載されていました。ご存知だったかもしれませんが、お送りいたします。」
 届けられたのは、昨年5月13日の道新読者の声欄に掲載された、旭川市 佐野公平氏(教員59歳)の「選手に深い愛情、伊藤氏のコラム」という一文だった。
 昨年4月27日に妻に先立たれてから今日まで、私を支えてくれたのは佐野先生の一文だった。
 ありがたく、もったいなく、読み返すたびに涙で先が読めなくなった。その一文が今度は現遠軽町生田原からやってきた。61歳最後の日に、私はまた泣いた。

 激動の一年間だった気がする。
 昨年1月24日に初孫が誕生した。双子の女の子だったが、超未熟児で体重は1000gだった。生きて欲しいと願う毎日だった。予定日より3ヵ月早い誕生だった。三月末、体重が2000gを越え退院でき、4月13日妻と奇跡的な対面が叶った。
 4月16日、緊急入院した妻は27日に旅立った。
 2009年1月24日、私にとっての双子姫は伝い立ちをし、私を見て微笑むようになった。
 私は、遅れてきた62歳だ。ただし、遅れの期間、生と死を見つめてきた。
 もっとも新しいニュースのことを「LATEST NEWS]という。
 遅れを恥じるなかれ!ゆっくり、ゆったりを恥じるなかれ!
 写真は「満面の笑み」「破顔一笑」。哀しさ、寂しさ、辛さ、苦しさ、それらを隠すものが笑顔でありたい。
 満62歳記念のスタートです。

プロフィール

プロフィール

伊藤 龍治
1947年札幌生まれ。札幌啓明中では夏は野球、冬はスキー。旭丘高では夏はバスケット、冬はスキー。「スポーツ二毛作」実施者。早稲田大でスキー。日本初のアルペンサービスマン、世界初のジャンプワックスマンは自称ながら事実。スキーで4年おきの「骨折五輪」に3度出場。全日本アルペンコーチ。北海道新聞に「いい汗いい話」を12年半執筆。テレビ、ラジオ、講演などスポーツジャーナリストとして活動中。

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