スキージャンプ高齢OB会・奇跡的ランチミーティング!

2019年03月14日

1969年冬、社会人1年目の私は試作のジャンプスーツを前に、札幌近郊中山峠にあるユースホステルの大広間にいた。大広間の中央に「笠谷幸生」氏がいた。

札幌啓明中学校の先輩で、笠谷さんと仲の良い益子峰行氏が「こいつ、俺の中学の後輩で今美津濃に行ってるんだ。ジャンプスーツ作りたいんだってよ、話聞いてやってくれや」と言い、益子さんはその場を離れてしまった。

笠谷幸生というスキージャンパーはもちろん知っていたが、お目にかかるのはこのときが初めてだった。このとき、笠谷さんは「氷下魚を肴に、日本酒」を飲んでいた。自分だけの「リラックスタイム」だったのだ。

1972札幌五輪に向けて各スポーツメーカーは必死だった。笠谷さんにしてみれば、「また、メーカーか!少しは静かにしてくれよな」という思いだったろう。

これが、益子―笠谷―伊藤の最初の出会いだった。やがて故笠谷昌生コーチ―益子コーチから依頼を受け「ジャンプ選手のためのアルペンスキー合宿のコーチ」、その後「ジャンプチームのワックスマン」に転身したのは益子コーチの依頼だった。

3月7日に実現した「ランチミーティング」は益子さんに言わせれば「44年ぶり」のことだ!今回は笠谷さんからのお誘いだった!お誘いを受け私は「蕎麦屋」を考えていたが、なんと「焼肉」だという。

結果、うまくて、楽しくて、懐かしいランチとなった。

二人が話す「小林陵侑ジャンプのすごさ!」「女子ジャンプの技術的欠陥」は聞いていて私には70%ぐらいしか分からないが、「現役のコーチ陣と選手たち」に直接聞かせる方法はないものかと思うほど、真実の分析だった。

もし、私が全日本ナショナルチーム強化ディレクターなら、「年に1~2回は、先輩を招いて、現役コーチたちとのミーティング」を企画するだろう。

いまはそれがないから、高梨沙羅選手がリレハンメルでの女子個人19戦で14位に終わり「理由が分からず困惑している」ということになっているのだ。せめて海外転戦するコーチは、「ジャンプを分析できる」コーチを派遣してもらいたいものだ!

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