ニッカネンに捧ぐ!秋元正博が君を破った日。

2019年02月05日

1983年12月、名寄から電話が来た。「まさのサラエボ五輪辞退が決まりました。きのう、今日、スキー履いてません。名寄に来てもらえませんか?」

まさは1982年に交通死亡事故を起こしていたため、1年間の活動禁止のあと国内試合では活動が許されていた。実力からして1984年サラエボ五輪は有力候補でもあった。しかし、社会的な大きな力が働き「選手自ら辞退」という道筋になった。

次の日、名寄に入った。まさに会い、「2連戦、俺がスキーを作る。お前は飛ぶことだけを考えろ」と言った。秋元正博は2連戦をジャンプ台記録で圧勝した。試合後、こう約束した。「サラエボ五輪直後に札幌W杯がある。サラエボのメダリスト全員が来る。そこが俺たちのオリンピックだ」。

1984年2月9日。札幌W杯70m級、ニッカネン、バイスフロクらのメダリストの前にまさは7位だった。「腹が立った。今が俺たちのオリンピックだぞ!お前は戦っているか?」

90m級の大倉山の気象条件は熟知している。だが気象予報は暖気と降雪だ。「何時から雪になる?その時の気温は?それによって雪の結晶が変わる!」私は30分ごとに空を眺め夜を明かした。朝6時にはスキーを仕上げた。試合が始まった。ニッカネン111m、バイスフロク109m、サラエボの金メダリスト二人が先行する。まさは103m、7位だ。そのころからだった。少し湿った雪が来た。外国勢は暖房の効いたワックスルームの中にいる。私は屋根だけがついたテントをワックスルームにしていた。「雪の結晶がはっきりしていれば、ブレーキになる。雪が来たら、ワックスを極薄状にするためはぎとる。暖房の効いた部屋では、ワックスはのびるだけで絶対に極薄にはならない。必ずブレーキになる。」

まさにはこう言った。「スタート直後は遅いと思うかもしれない。でも大丈夫、飛び出し直前の抜けはブレーキは無しだ!」

ニッカネンのスキーは94・2khの助走速度が92・9khに、バイスフロクは94・1khが93・1khに、まさは94・1khが93・5khにとどまった。超人・鳥人ニッカネンも1・3khのスピード低下では感覚も狂うのだ。ニッカネンは111mから90mへ、バイスフロクは109mから89mへ墜落、まさは99・5mの2本目の最長距離を飛び逆転優勝を飾った。

当時の新聞記事はすべて残してある。まさと抱き合って泣いている。まさを肩車して2万3千人の観客席前に運び、「復帰を許していただき、ありがとうございました」と二人で叫んだ!

ニッカネンとバイスフロクが握手を求めてきた。強く強く握り返した。

夜、まさのお母さんから電話があった。「きょうが、あの子のオリンピックでした」と泣いていた。

2019年2月3日。小林陵侑が年間10勝のニッカネンの記録に並んだ日、ニッカネンは天に召された。                 合掌。

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