小林陵侑、快挙!ジャンプ週間体験者は感涙!

2019年01月08日

1979-80年シーズン、私はジャンプワックスマンとして、ドイツ―オーストリア年末年始ジャンプ週間を戦った。

このシーズン、ジャンプW杯の開幕戦はイタリア・コルチナダンペッツオで、開幕前の欧州合宿はスイス・サンモリッツだった。サンモリッツでは複合チームも一緒だったから大所帯の合宿を楽しんだものだ。

ジャンプメンバーは、八木、川端、敦賀、会沢、秋元、川村の6選手だったと記憶しているが、いまだに彼らの言葉を借りれば「過去最高の楽しい遠征」だったという。成績も良かった。第1戦オーベルストドルフ、第2戦ガルミッシュ・パルテンキルヘンでは八木・川端選手が上位入賞。

1980年1月1日、ガルミッシュ・パルテンキルヘンでは2回目残り数名まで八木選手が3位、川崎監督、八木コーチから「3位までの選手は共同会見があるから、お前通訳で行ってくれ」という。当時、八木選手は拓銀所属だから、「銀行員がなぜジャンプをやっているんだ?」などと聞かれたらどう答えればいいのか、私は真剣に悩んだ。そうしているうちに「悪魔が忍びより、耳元で囁いた!」「4位ならいいんじゃないの?!」 八木選手にはいまだに言っていないが、私は「どうか4位になって!」と祈ったものだ。

このとき、もう一つ私は大チョンボをしでかした!1回目で八木選手は6位、川端選手は9位だったと思うが、2回目が始まり有力選手が飛ぶたびに私は「ダ、ダ、ダ、ダ、」と機関銃を打ちまくったのだ!もちろん、持ったふりをしてのことだが、これが「必殺」のように効果があり、撃たれた選手は墜落する。5~6人を撃墜したとき、横にいた笠谷幸生さんが「龍、ダ、ダ、ダ、ダってのは、万国共通語だぞ」と言った。我に返って周りを見ると、撃墜選手のコーチ、仲間たちがにらみつけていた。もし、笠谷さんが横に居なければ、無事に帰国できたかは分からない。

欧州ではスキーの人気は凄まじいが、「英雄としての評価はジャンプと滑降」だ。年末年始のジャンプ週間は1試合の観客数5万~7万人ともなる。そこで「4戦4勝」する日本人選手がでるなど夢のまた夢だった。

1月7日、「グランドスラム」というタイトルの笠谷師匠からのメールが来たのは午前4時。私は午前4時半に感涙状態で返信した。

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