雪国文化を創った鳥人を誇る!

2018年10月27日

1940年・昭和15年に「札幌冬季五輪」と「東京夏季五輪」が決定していたことを知る人はもう少ない。両大会は「日中戦争」の影響で開催権を返上したのだ。

その後、日本は太平洋戦争から敗戦となり亡国の憂き目を見ながら復興し始め、高度成長期に再び1964年・昭和39年に東京夏季五輪を、1972年・昭和47年に札幌冬季五輪を開催した。両五輪は日本国民の「悲願」であった。

1972札幌五輪は、競技場・練習場の建設費94億円、道路や橋、選手村などの関連事業の総額1937億円、経済波及効果4000億円と言われたものだ。ちなみに札幌市地下鉄の開通は1971年12月16日だ。(現代の貨幣価値で考えるならば15倍と思われる)

札幌五輪が近づくにつれ「巨費をつぎ込むんだ、成績は大丈夫なのか?」という声が大きくなった。スピードスケートとジャンプ、その他もろもろでメダル10個はいける、これが開催前の「希望的観測」だった。

笠谷幸生選手は1970年、26歳で世界選手権銀メダル。1971年札幌プレ五輪で優勝。1971年~72年年末年始独墺ジャンプ週間3連勝。国民は「笠谷がいる。笠谷なら何とかしてくれる」と思った。

笠谷は恐れと戦っていた。「自分のジャンプは1970年に完成した。果たしてそれがあと2年持つのか?」 当時は2年ごとの五輪・世界選手権で優勝者は変わっていたからだ。「頂点は一瞬!誰も保障してくれず、自分ですらわからない」のだ。

札幌五輪ジャンプ代表は7名。試合に出れるのは4名。日本は公式練習がすなわち「国内予選」だった。エントリーは試合の2日前、それまでは誰が出るのか決まらない。しかし、誰に会っても、どこに行っても聞かれるのは「メダル、取れますか?自信はありますか?」だった。笠谷の居場所はなかった。

「エントリーされなければ誰が出るのか分からないのだ」、真剣にそう言っても誰もがその言葉を無視した。笠谷は「言葉を失った」。そんな時だった。ある新聞社の記者から言われた。「お前、殺してやるからな!ペンで殺せるんだ!」。当時はまだ「スポーツマスコミ」は確立されていなかった。政治や経済、社会部の記者が「友軍」として大挙札幌に集結していた。そういう記者にすれば「何を聞いても答えない選手」はもはや敵でしかなかった。

宮の森ジャンプ場での1本目・84mは80点のジャンプだった。最大の危機はその直後に訪れた。スタートまで上る階段には全段カメラマンが位置していた。笠谷に「シャッター音」という恐怖が襲ってきた。そして信頼する益子に懇願した。「先輩、俺の右側を一緒に上ってくれませんか!」益子は悪役を引き受けた。と同時に「こいつ、相当参ってるぞ」と思った。

2本目は79m、60点のジャンプだった。笠谷は思った。「トータルすれば、何とか合格。それにしてもよく2年間もったなあ」。その原因はもうわかっていた。「宮の森の観客23000人の大声援、人の念力が支えてくれた」と。

札幌冬季五輪は誰もが「大成功」したと言う。メダルはわずかに3個、しかし1種目でのメダル独占だった。銀・金野昭次、銅・故青地清二。

札幌の当時の人口は100万人、現在は195万人。笠谷は「街を創った」。国際観光文化都市・北方圏に存在する「雪の降るまち」雪上文化五輪都市を創った。そして、2018年「文化功労者」に選ばれた。

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