人生、下り坂で見えてきた風景!

2017年11月01日

私は1947年・昭和22年2月生まれだから、いわゆる「団塊の世代」の一員だ。中学校時代は、1クラス60人で11クラスあり、高校時代も1クラス60人で9クラスもあった。

クラスの中は机と椅子だらけで、走り回るスペースすらなかった。人数が多いからといって常に競争という意識はなかったが、定期考査の結果などは廊下に貼りだされもした。いちばん納得できたのは、大学受験で東京に出る時の青函連絡船での意識だ。親しい友人も同じ意識だったそうだが、連絡船が函館を離れる瞬間に「絶対に落ちぶれては戻れないぞ!」と強烈に思ったものだ。

大学時代は全国から集まった多種多様な人材と交流したが、体育会スキー部所属といういい意味の制約のなかにいたから、部活優先で遊びの世界に入ることはなかった。夢は体育教師だったから、教職課程も取りながら部活でスキーに没頭した。

就職してからは、会社自体が国民の休日も仕事という猛烈会社だったし、部長が「昼食は15分で食える」という「軍隊上がり」の猛者だったから、私も入社以来13年間の出張日数が「1年平均305日」という猛烈人生を送ったものだ。

スキー品の販売促進部から金属・プラスティックメーカーの子会社への出向、親会社に戻ってスキーウエアの責任者、事業部の次長などへ仕事は変わっていったが、入社して20年目に人生の転機がやってきた。

所属していた第2事業部が第2と第6事業部に分離されるとなったとき、事業部長が私に言った。「どうしようもないやつは第6にやっちまえ」。この言葉が私の「良心」に火をつけた。同じ釜の飯を食った仲間を平気で選別しようとする人間を許すことはできなかった。私は上司に真剣に「説教」をした。その夜、会社への「提案書」を書きあげ、それを「退職願」というタイトルにした。サラリーマンは常にふところに辞表を持て、と先輩に教えられていたからだ。

退職するまでには3か月半を要した。常務決済で済むはずが、専務、社長、会長を突破しなければならなかった。社長からは「すべて私に任せろ」と言われたが、当時の役員会の構成を見れば社長が一番若いし、常務、専務らが熱心に引き留めてくれたのを断ってきたのだ。社長に「すべてお任せします」とは言えなかった。

独立後、最初の仕事は前の会社の会長からの後押しだった。独立後3年、前の会社から「嘱託契約」の話をいただき2年間契約した。この効果は絶大だった。「悪いことをして会社を去ったわけではない」ということが白日の下になったのだ。

それでも、独立後20年間は「なぜ、辞めたのか!そのまま務めても良かったのでは!」と何万回も思ったものだ。長い物には巻かれろ!寄らば大樹の影!自分を認めてくれる者に寄り添うことは悪いことではない! と何万回思ったことか!

妻を乳がんで失ってから9年になる。乳がんの手術はその8年半前で、最後の3年は腰への転移で歩けず、完全看護をした。夫婦としては貴重な貴重な3年だった。生まれ変わるように、双子の女児の孫ができ妻は亡くなる2週間前に抱くことができた。生と死を考え続けて18年になるわけだ。

2017年2月に70歳になった。ひとつのめぐり合わせがあり、16歳の高校女子バスケ選手の「じん帯断裂からの復帰」の手伝いをすることになった。彼女が復帰を果たした後、先生から引き続きトレーナーの依頼を受けた。今は、女子部員20人を預かっている。「完全ボランティア」だが、人生下り坂に「無償の愛」を与えられる孫のような女性たちに巡り合えたことは、これ以上の幸せはないと思っている。

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