詩の心、水面にみつけ…④
2008年02月17日
「胆振管内むかわ町のハウスでニラの収穫が最盛期」というニュースの現場に行き、映像を撮って、道新の動画サイトにアップした。
使ったムービーカメラはサンヨーの「ザクティ」。片方の手のひらに収まるほど小型で、重さはわずか200グラム余り。
これで撮った動画は、ごらんの通り結構鮮明だ。動画のほか、600万画素のスティル写真も撮れるすぐれものである。
デジタル技術もここまで進化してきたのか、とあらためて驚いた。
私の新米記者時代を思い出す。支給されたのは「ニコンFM」だった。レバーを親指で動かしフィルムを一枚ずつ巻き上げる方式で、両手で持っても重量がこたえた。
両手を振りながら懸命に事故現場に向かって走る際、首からぶらさげたニコンFMが乱舞し、自分の腹に繰り返しぶつかってきたのを思い出す。
あれから30年。時代は大きく変わり、とりわけデジタル機器を使った情報処理のスピードアップは、われわれ中年世代の想像をはるかに超えてゆくようだ。
でもどうなんだろう。
まあ、なんというか。
つまり、あわてることはない。
どんなに機器が、進化しようと、映像をつかまえる「基本」は変わりようがないと思う。
「心」は同じ。
◇
その基本のひとつに「光を待つ」という姿勢がある、と以前に教えられた。
光は被写体に陰影をつけ、本質を浮かび上がらせる。本物の光線が来てから、はじめてシャッターを押す。それが基本。特に風景写真では、キホンのキで、多くの写真の教科書に書かれていることだ。
米映画「マジソン郡の橋」(1995年製作)を先日、DVDで見た。
クリント・イーストウッドが演じる中年のカメラマンが、雑誌の仕事で、屋根つきの橋を撮影にくる。
橋のそばに4日間の日程でキャンプし、カメラを据え、その橋にレンズを向ける。
「あとは光を待つだけだ」。彼はそう言う。
脚本に映像の専門家の手が入っているのだろう。実務の細部に目が行き届いていてすぐれた脚本だと感じた。
◇
大宇宙のどこかにカメラを据え、何物かにレンズを向ける。何物かとは、例えば、珍しい橋、自室の窓から見える隣家の壁、よく行くゴルフ場のコース周辺……。
この選択までなら仕事の3割。
あとの7割は、おあつらえの光が来るのをじっと待つ粘り強さだ。
光。自分だけのために大宇宙が用意した光。
必ず訪れる。
それを逃すわけにはいかない。
多分、シャッターチャンスは1度だけだろうから。
▼真駒内カントリークラブ・藻岩コース・アウト1番、第2打地点から。2007年10月21日午前10時51分撮影
「樹木の影に」 立原道造
日々のなかでは
あはれに 目立たなかった
あの言葉 いま それは
大きくなった!
おまえの裡(うち)に
僕のなかに 育ったのだ
……外に光がみちあふれているが
それにもまして かがやいている
いま 僕たちは憩う
ふたりして待つ この深い耳に
意味ふかく 風はささやいて過ぎる
泉の上に ちいさい波らは
ふるえてやまない……僕たちの
手にとらえられた 光のために
