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【連載】久慈次郎とベーブルース(5)

2009年02月28日

 僕の目の前にいる久慈次郎さんは、70年もの前の自分の父親の死をどうとらえていらっしゃるのだろう。僕の聞きたいのは、その一点でした。1939年の8月19日、父・久慈次郎さんは、キャッチャーからの送球が右のこめかみに当たり、2日間、意識を失って、そのまま還ることがありませんでした。

 送球といっても、2塁手をけん制しようと、捕手がすばやい投球をした瞬間でした。久慈選手は、四球を選び、一塁に歩き出そうとしたとき、代走で出ていた2塁の選手の離塁が大きいのを見て、捕手がけん制したのです。

 こうしたけん制で、打者に当たったケースが、近年でもありました。2006年8月、西武の涌井がソフトバンクと対戦した試合。西武の攻撃中に、打者が捕手のけん制球を後頭部に当てられて、倒れこむというシーン。僕は、たまたまこれをニュースで見ていたのですが、幸いヘルメットをしていたおかげで、打者の水田は、大きなけがはなかったのです。

 2世の久慈さんは、僕から少し目をそむけながら話しました。
 「あの時代は、ヘルメットも何もなかった時代です。父も、今なら命を落とさずにすんだのでしょうが」
 「そうですね、今なら助かったでしょう。円山球場に行かれると、今でも、複雑な思いをされるのではないでしょうか」

 少し、空白がありました。久慈さんの表情が変わったようにも見えました。僕は聞いてはいけないことを聞いてしまったのか、と思いました。次の言葉に驚きました。

 「行ったことがありません、円山には。行こうとも思いません」
 
 そうだったのか。僕は、てっきり何度か円山に行かれているのだと、思っていたのです。自分が生まれる前に亡くなった父、目の前の久慈さんは、その場所にさえ、行ったことがない、いや行きたくないのだ、ということを聞き、再び、70年前の惨事が目に浮かぶようで、言葉を失いました。

 奥さんの雅子さんが、これまでのいきさつや、ご家族のことを話してくれました。
 話の中で、「面白いものがあったんですよ」と、教えてくださいました。

 「ベーブスールや、ゲーリッグのサインがあるメンバー表があったんです。ほら、これです」

 雅子さんが、居間に戻り、持って来た資料の中に、一枚のコピーがありました。それが、1934年の日米対抗野球に主将として出場した久慈次郎とベーブルースら、きら星のごとく輝く「大リーグご一行様」がサインをして交換したメンバー表だったのです。

 「えー、こんな貴重なものが。これ、世間に出たことがあるんですか」
 新聞記者根性は、つい、こうしたことを聞きたくなります。「ほかで、報道されたことは?」と。

 「いえ、いえ、ぜんぜん。お宝探偵団に出そうと思ったんですがね」
 「えー、えー。本物は、どこにあるんですか、ぜひ、ぜひ見せてください」
 「いいですよ。でも、ここには、ないんです。もし、家が火事にあったり、何かあったときのために、銀行の金庫に入れているですよ。黒田さん、次にいらっしゃるときに、連絡いただければ、用意しておきますから」
 「わかりました。ぜひ、次回に。でも、これ、どこにあったんですか」

 久慈さんが、笑って答えてくれました。
 「実は、仏壇の中に、奥の方に入れられていたんですね。亡くなった母が大切にしていたのでしょう」

 「そうですか」
 僕は、すっかり興奮しながら、久慈家をあとにしました。雅子さんの運転で阪急電車の駅まで送っていただいたとき、すでに頭の中には、「次は、いつ訪問できるかなあ」でいっぱいでした。(つづく) 

☆戦うぞ、カクテル

2009年02月27日

 昨日のブログの反響がたいへんでした。コメントもたくさんいただきました。おしかりを受けるかもしれないと、書いたところ、面白すぎる-が圧倒的?でした。高校の同級生からメールも来ました。「ニトリ売れるよ、東京で」と。
 もう一日だけ、ピッチネタではなく、場外ネタをお許しください。

 昨晩は、この道新ブログの人気ブロガーT氏と反省会。カクテル好きのT氏(ちなみに僕はワイン好きです)と、カクテルグラスを傾けながら、「ネタかぶり」の話で大いに盛り上がりました。

 ちなみに、昨日の僕のブログはそのT氏と基本的には同ネタ。でも、人間性といいますか、話題性といいますか、良心といいますか、それぞれの受け止め方は、こんなにも違うんですなあああ、と顔を見合わせて笑いました。

 話の中身は、きわどい話題もありましたので、はしょります。で、女性バーテンダーさんに「コンサドーレにちなんで」と、特別に頼んで作ってもらったのが、このカクテル。僕は名付けました「戦うぞ」カクテル。お酒の種類は、T氏に聞きましたが、忘れました。グラスの下の黒のリキュールは、薬草系です。きりり、と最後に舌に来て、僕は心地よかったのですが、カクテル通のT氏は「うーん、最後はこれか」と不満顔でありました。
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 そのころ、チェコのリベレツでは、複合の日本チームが、まさか、まさかの金メダルに沸いていたころでした。2年前の札幌大会で、大会公式新聞の制作に携わっていたので、リベレツは、大変気にかかっていました。

 やってくれました。バンクーバーが楽しみ、楽しみ。バンクの話題もこれから書きますね。

 「戦うぞ」カクテル、今シーズン後には、「J1再昇格祝」カクテルと名前を変えさせていただきます。

玉置浩二&石原真理子とコンサドーレ

2009年02月26日

 何をまた、書き始めるのやら、と思われるかもしれませんが、最後まで読んでいただければ、と。

 驚きました、この2人の関係。今朝のワイドショーは、大騒ぎでした。
僕は、昨日の朝、午前7時に、コンビニにスポーツ紙を買いに行き、迷わず「日刊スポーツ」を手に取りました。道新スポーツは、家に届きますので。
 
 トップが、この2人の記事。「復縁」。こんなどんでん返しは、凡人には理解できません。薬師丸ひろ子ファンだった僕は、少し複雑ですが。玉置浩二氏とは、1982年のワインレッド時代に、一度会っているのですね、北海道出身者ですから。で、だれよりも、玉置&石原の情報をキャッチしたのは、僕が早かった、と自負しているのですが。

 当時、僕は駆け出しのスポーツ&芸能・文化記者。とある芸能マネジャーと仲良くなったおかげで、芸能界の裏話を面白いほど、教えてもらいました。

 その中に、玉置&石原の「密会」があったんですね。当時のことを思い出してみました。

 「事務所が、困っているみたいです。大変、らしいです。両方の事務所も手に負えないらしいです」
 「で、それ本当のことなの? 玉置の奥さん(当時)も北海道の人だよね」(僕)
 「ええ、かなりやばいらしいです。石原が玉置のマンションに入りびたりで。警察騒ぎもあったみたいです」
 「そんなこと、マスコミに知れたら大騒動でしょう。気が付いてないの? 芸能マスコミとかリポーター」
 「まったく。もし、ばれても、あんまりコトがでかすぎで、誰も信じないと思いますよ。とにかく、仕事やめてもいい、というくらいの勢いらしいです、2人は」
 「えへー、安全地帯、今が絶頂なのに。石原真理子だって」

 
 あのとき、僕は芸能専門記者になっていれば、違った現在があったかもしれません。
 20年の時効なので、職業倫理(取材源の秘匿)をとりあえず、横に置いて続けます。

 いやはや、当時の2人の所属事務所は、スター2人を守るために、大変な苦労をしたようです。それから、何年くらいでしょうか、2人の関係が公になってから、そのマネジャー氏と再び飲みました。
 で、マネジャー氏。
 「これ、長引くと思いますよ。ふたリは、切れないと思うもん」
<すごい、あの時から20数年後の「恋の予感」を当てるなんて>

 まあ、すごいすごい。今考えれば、石原が暴露本を出した時点で玉置が法的措置なり、対抗措置を取らなかったことが、今回の復縁につながっているのでしょうね。さすがの芸能リポーター氏も、ここまでは入り込めなかった、ということでしょう。

 さて。こんなことをなぜ、コンサブログに書いているか。
 関係しています、コンサドーレにも、大いに。
 
 昨日の日刊スポーツ、2人がホームセンターから出てきたところの写真を掲載していますが、そのカートには、はっきりと「ホームファッション、ニトリ」の緑のプレートが張ってあるではないですか。
  
 2人はニトリで新生活の生活用品を買い揃えていた! これをコンサドーレに生かさない手はありません。この際、2人にコンサファンになってもらい、(玉置氏は、すでにそうかもしれません)ぜひ、聖地で応援してもらいたいものです。(この宣伝効果たるや、すごいかもしれません)

 ついでに言うなら、ワインレッドの歌詞のどこかにレッド&ブラックと入れてもらえれば、今以上、それ以上のシアワセはありません。僕も20数年来のネタをばらした甲斐があるというものです。

★サポーターへ、一大攻勢だ!

2009年02月24日

 という見出しの本日の道新スポーツ。HFCが、今季大々的にPRをしたり、チケット販売をする、という記事です。新設される「プロモーション業務部」が、それを担い、3月8日の開幕戦から、打って出るそうです。こうしたソフト面での戦略、いよいよ動き出した、ということですね。

 昨年、新しい体制になったコンサドーレが、ようやく表に見えてきたという気がします。中期計画にもあるように「だれもが参加可能な場と空間の形成」(ちょっと、難しそうだな、言葉が)、それに「財務内容の改善と事業組織の再編」(これは、経営者だから当然です!)、この2つは、これからのコンサのすべてにあてはまるでしょう。

 黙っていても、お客さんが来てくれる、という時代は、終わったと見ていいでしょう。創成期のコンサは、サッカーファンでなくても、「道内初のプロチーム」「初のドームでの試合」と、いくつもの恵まれた要素があって、観客動員数が伸びたとみるのは、当然のことと思います。そして、その後の日ハムの躍進。ファンが流れたのも、事実です。
 
 だから、J1復帰の昨年は、言ってみれば、過去からのファンの「実数」が見ていたと思うのです。数字に表れていましたよね。女性が多い、年齢層が高いなど、他のクラブとは明らかに違う特徴があります。

 逆に言ってしまえば、他のクラブの長所をもらって、新しいファンを増やすこともできるということではないでしょうか。新組織「プロモーション業務部」は、なにか芸能プロの一部門のようにも聞こえますが、積極的なPRは、どんどんやればいい。経営が苦しくとも、じっと貝の中に閉じこもっては新しい展開は、見えませんからね。

 数日前、かつて支局長だった余市町でよく飲んだ、ある会社の方(僕と同年代なのですが)と、狸小路で飲む機会がありました。
 認識が一緒だったのは、「企業チームの時代は終わった。新しい、地域に根ざした本格クラブ組織が生まれる時代になった」でした。

 昨今のいろいろなスポーツの企業チームの撤退は、胸をしめつけられます。会社はいい、でも選手はどうするんだ、そのスポーツを愛して来たファンは、どうするんんだ-と、考えれば考えるほど、暗い気持ちになってしまいます。

 ここは、逆転の発想でいきましょう。コンサドーレは、他のクラブに比べれば、非常に企業色は薄いチームです。この、不況の時代、厳しい経済状況だからこそ、コンサの特色が生きてくるのではないか、そう思うのです。

 大々的PR、どうぞどうぞ、チケット販売もやりましょう。「サポーター」にふさわしい動きをしてくれることだと思います、みなさんも。そして僕もやらなくてはなりませんね。

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<こうしてどんどんマチに飛び出してください、選手たちも>

☆さて、どんなシステムとなりますか

2009年02月23日

 昨日の、沖縄での練習試合は、いい結果となったようですね。ニュースで見ましたが、ダニルソンの1発目はすばらしかった。2本目は、相手GKのミスということもあるでしょう。
 開幕まであとわずかとなりました。そろそろポジション争いが激しくなります。石崎監督は、どう腕を振るうのでしょうか。もう、頭の中では固まっているのでしょうね。

 昨年まではご存知のとおり、2トップの4-4-2、今年は、明らかに違いますね。グアムキャンプで石崎さんの意志がはっきりと選手たちに伝わっていたようです。
 
 新加入のキリノにトップをまかせて、クライトンと組ませるのは、だれが見てもわかります。トップ下において、チャンスを作り出す。4-2-3-1というシステムを早く、選手たちのものにしなければなりませんね。

 クライトンのほかにも、砂川や岡本もいる。宮沢だってどこでもこなせるから、攻撃の幅が広がることでしょう。ダニルソンのように左の一発を持っている選手がいれば、選択肢はまた広がる。こう考えると、ますます、早く試合が始まらないかなあ、と思ってしまいます。

 あとは、DFをもう少し、見てみたいですね。ソンファンの闘志あるプレーも。
 沖縄の成果を忘れずに、北上して来てください。このところナマの映像見られないので、少々欲求不満気味です。まあ、51試合もあるので、すぐに満腹になりそうですが。

★レラカムイの奇跡<2>

2009年02月22日

 昨夜は、同僚とレラカムイの今シーズン最後のホームゲームを月寒アルファコートドームで観戦。敗れました、プレーオフ進出も逃しました。しかし、集まった5008人の大観衆(超満員)は、最後まで声援を送っていました。試合後のセレモニーも、胸に迫るものがありましたね。
 レラは、着実に前に進んでいます。

 試合後、すぐに選手たちが、水沢社長に促されるようにコートに出て、観客にあいさつをしました。代表して東野ヘッドコーチが、「きょうはこうした結果になりましたが、5000人もの方に応援していただいてありがとうございます。残り4試合、精一杯戦います」と、マイクで話しました。

 試合は、相手の日立が、試合開始から主導権を握るゲーム。日立の若い主力、竹内らにパスを回され、レラがボールを奪い返しても、すぐに簡単に入れられる、という展開でした。

 それでも第3ピリオドは、18-12と、反撃したレラ。第4ピリオド、追いすがって、あと1本決まっていれば、逆転も考えられるところまでいきました。相手の日立は、これでプレーオフ進出が決まったわけで、大変な喜びようだったのですが、レラが偉かったのは、敗戦にもめげず、すぐにロッカーに消えることなく、そのままコートで、観客に頭を下げたことでした。

 こんなこと、ほかの競技ならありえないでしょう。レラがまだスタートしたばかりのチーム、そして新しいファンを開拓しなければならない、という目的が、選手たちにも伝わっていることを感じさせました。
 その後、ロッカーへと戻る選手に、ファンは、あたたかい拍手とタッチを求めて、たくさん選手の出入り口に集まっていました。
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<試合後のコート。若いファンが選手にタッチを求めて集まってきました。携帯写真なのでなんだかよくわからないでしょうが、ご勘弁を>

 「この雪のなかで、こんなにたくさんの人が見に来てくれて。僕たちには、専用の体育館も、練習の場もないんです。でも皆さんの、声援に励まされて」
 東野ヘッドコーチの言葉は、本当に胸を揺さぶりました。

 バスケットのプロチームが誕生する、と聞いたとき、ぼくは、正直に言って「本当に集まるのだろうか、お客さんが」と思っていました。
 
 そもそも有名な選手がいるわけでもない、そして、競技人口はそこそこあっても、TV的にメジャーではない。シーズンがちょうど、真冬に来る-そんなマイナスイメージしかなかったのですが、この2年目の足跡は、確実に道民に受け入れられるチームに育っているなあ、と思った次第です。

 道内開催の試合で観客数を比較すると、今季は総試合数16試合で56340人、昨季は18試合で52729人。1試合平均は、今季が3521人、昨季が2929人。数字が表しています、その進化を。

 試合の合間や、タイムアウトの間に、子供たちのドリルがあったり、この日は、元日本ハムの岩本さんも、ドリルに飛び入り参加したり、そのほか、観客を飽きさせないパフォーマンスを積極的に取り入れています。

 大音量の音楽とマイクで、観客を盛り上げる手法は、NBAを習ってのもので、本当にこれがいいのか、どうかは僕には判断できませんが、負けてもだれもやじを飛ばさず、「惜しかったね」と笑顔で帰宅するファンを見る限り、レラの手法は、間違ってはいない、と言っていいと思います。

 コンサも観客をいかに増やすかは、避けて通れない問題です。生まれたばかりのレラから、吸収できるものは、吸収すべきだと思います。
 同僚とススキノに向かう途中、そんなことを考えて、地下鉄に乗りました。

★上里一将、キャプテンの面白さ

2009年02月21日

 窓の外は、すごい雪だなあ、と時計台が見下ろせる会社の窓から見ていたら、一枚のファクスがデスクに届いていました。HFCからです。
 「報道関係各位 2009年 コンサドーレ札幌 キャプテン・副キャプテン決定のお知らせ」
あっと驚く上里がキャプテンに指名されたのです。

 キャプテン 上里一将
 副キャプテン 中山元気、石井謙伍

 その下に上里新キャプテンのコメントが載っています。
 「自分たちの年代がこのチームを引っ張っていくという意識を強く持ちたいと思います。チームの目標に向かってみんなで支えあい、声を出してみんなを盛り上げられる役割を果たしたいです」

 「自分たちの年代」。そうです、上里はまだ23歳、石井も同年代。中山は、それより5歳ほど上ですが、この20代こそ、新しいコンサドーレを引っ張っていくにふさわしい選手たちだと思います。

 今年は、クライトンを中心にゲームを作らなければならないでしょうが、上里は新しい時代にふさわしいプレーを期待したい。J1でも何本かのシュートを見ましたが、左足のあのミドルを、今シーズンはひとつでも多く決めてほしいと思っています。

 ちょうど、あす22日は、沖縄北谷でプレシーズンマッチのFC東京との試合があります。沖縄平良市出身の上里が燃えないはずはないでしょう。きょうキャプテンを発表したのは、クラブの粋な、はからいではないのでしょうか。

 北谷と言えば、嘉手納空軍基地のすぐ南側の町ですよね。嘉手納基地を取材することがあって、その近辺に泊まったこともあるのですが、米空軍の輸送機や戦闘機、それにヘリもバタバタやっていて、住民の方の騒音被害は、相当なものがあります。地元の方は、慣れてしまっているのでしょうが、ビーチに突然、戦闘機が現れてくるのを体感すると、沖縄の人たちのこれまでの苦難がうかがわれます。

 その沖縄の星が、今度はコンサの星になる。さしずめ南十字星から北斗七星といったところでしょう。上里選手は、多くの専門家や記者も高く評価する能力のある選手。ぜひともこのキャプテンマークが、チームの中心として目だってくれるように、と思います。

 追伸
 それにしても、きょう千歳から飛び立ったサポーターの皆さんは、無事に那覇に着けましたでしょうか。この時期、僕も、千歳から大阪経由で石垣島に行こうとして、なんと千歳に1泊して次の朝、行ったこともあります。現地で、どうぞサッポロの冷気を思う存分、噴き出してください。

 【戦】たたかうぞ、コンサドーレ!

2009年02月20日

 昨日、午後、HFCから流れて来たファクスを見て、「おーっつ」とうなってしまいました。今シーズンのクラブスローガンは「戦」(たたかう)。シンプルでかつ、力強い。いいじゃないですか、この文字の形も!
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 古代文字のような、印章にもなりそうな四角く太い「戦」「たたかう」は、いいですね。どなたの発案でしょう。広島弁使いの石崎さんも、たいそう喜んでいるのではないでしょうか。

 クラブから流れてきたファクスには、次のように書かれていました。
 「再びJ2の舞台となる今シーズン、我々はJ1昇格に向け、赤黒の魂を胸に恐れることなく、そして怯むことなく戦っていきます。さまざまな困難に対して、クラブ一丸となって立ち向かう姿を<戦>という一文字に表しました。以上」

 戦いは好きではありません。なるべくなら、戦わなくてすむ方法を選びます。どんな理由があれ、戦争は絶対反対。平和主義者です。
 でも勝負の世界、プロスポーツだけは、許してもらいましょう。フェアな手段であれば、どんなことをしてでも勝つ! そんな心意気を表していますね、この「戦」は。

 ぜひ、これを印鑑みたいにして、売り出すとか、シールにするとか、次の「戦い」も考えてほしいものです。このままペタンペタンと、ノートやガラス窓に張って、戦意を高揚させましょう。

 目に浮かびますね、サポの持つ、「戦」の文字が染め抜かれたのぼりが。そのミニチュア版でもいいので、だれか、作ってくれませんかね。デスクに置くと、なかなかいいと思います。文字の色が赤と黒の両方があれば、もっといいかも。

 フロントもがんばるぞ。その意気込みは、ファクスされてきたニュースリリースの紙にも表れていました。用紙の一番上には、すでに、このスローガンが刷り込まれていたんですね。今後は、この紙でいろいろな情報がマスコミ各社に流れるわけです。
 用意周到!準備万端!勝負はそうでなければなりません。
 (きょうは、褒めちぎらせていただきました)
 

☆笠谷ブランドを持ち続けてほしい

2009年02月19日

 笠谷さんが亡くなりました。スキージャンプの指導者として黄金期を築いた笠谷昌生(あきお)さんが18日、74歳のスキー人生を終わられました。道新ブログの伊藤龍治さんが書いている「あにを偲ぶ」を読んで、笠谷お兄さんの偉大さと、日本のスキージャンプにとって忘れてはならない、その偉大な功績を改めて感じました。

 1972年の札幌五輪。70メートル級で実弟の幸生さん(65)が優勝し、「日の丸飛行隊」がメダルを独占したのは、このお兄さんがいたからにほかならないと思います。

 98年長野五輪での、団体金メダルは、お兄さんが、競技の続行を主張して、風雪の中を、原田や船木が、うまく風をととらえたから-この話は、きょうの運動面に編集委員の荒木記者が書いていますが、確かに当時、ぼくもこの話を耳にしたことがありました。

 それは、お兄さんが国際スキー連盟の中で、確固たる地位があったから、主張できたことでしょう。日本のジャンプの歴史の中で、笠谷兄弟の果たした役割は、とてもつもなく大きいものがあるのです。

 ぼくは、偶然にも長野五輪当時に、北海道新聞の余市支局長でした。そのせいで、ジャンプに関わるたくさんの人たちと知り合いになれました。船木選手のお母さんや、クラスメイト、そして弟の笠谷さんの札幌五輪の金メダルを仁木町で目の前にすることもできました。幸生さんはニッカウヰスキーにまだ、籍があったころなので、ニッカ会館で、何度かグラスを傾けることもできました。

 それから、船木選手らの凱旋パレードは、昨日のことのように目に浮かびます。当時船木選手と話していて、「あと何年かは、君の黄金時代が続くのでは」と、言った覚えもあります。でも、世界が日本に対して厳しかった。不利になるルール変更などで、船木選手のその後の成績は、そのまま、いまの日本の不振につながってしまいました。

 余市は、日本のジャンプのふるさとでもあると思います。ニッカウヰスキーの創始者、竹鶴さんの名前を冠した竹鶴シャンツェでは、毎日夜になると、少年団のメンバーが、元気に飛んでいます。決して簡単にできる競技ではないだけに、大人たちのサポートも大変です。かつて、笠谷さんが飛んでいたことを誇りにして、笠谷ブランドをずっと、継承してほしいものです。

 余市高校に通った笠谷兄弟は、たぶん、今のような地元のサポートがあってこそ、ジャンプを続けられたのでしょう。余市高校のすぐ裏庭にジャンプ台はあるからです。

 笠谷の名前は、日本のジャンプ界に永遠に刻まれています。兄昌生さんの軌跡も刻まれるべきでしょう。ご冥福をお祈りするとともに、僕としては、お元気なときに、もう少し、お話を聞きたかった、そう思いました。

狸小路の酔いどれ狸の運命

2009年02月18日

 どうしても書きたいことがありました。コンサでも日ハムでも大相撲の話でもありません。札幌・狸小路の酔いどれ狸のことなのです。どうなるんだろう、この狸君。置いた人は、どこの人。そして迷惑でしょうなあ、狸小路商店街の方々も。

 異変に気づいたのは、1月下旬のことです。狸小路5丁目の馬券売り場、ウイングの横にある狸神社の柱に、張り紙が張ってあるではないですか。
 ぼくは、ここを通るとき(いや、馬券買っているわけじゃ、ないですよ)必ず、おみくじを引くことにしています。ひとつ20円、と書いてあるのがいい。20円なら5回引いても100円。それで、ここのおみくじの「傾向と対策」をいつか発表しようと、せっせと買いだめているのですが、ある日、おみくじを引いたあと、変な「おふれ書き」が目に入ったのです。

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 で、その張り紙(プラスチックコーティングしてあります)には、「狸の剥製を置かれた方は、お持ち帰りください」という趣旨のことが書いてあります。え、え、えーッ。なんのことかいな。

 と、神社の狸さんの隣を見てみると。おおおっつ、狸がいる!
 それも、粋な格好をした酔いどれ狸。ごていねいにも台座もついているので、どこかの居酒屋にでも飾ってあったのでしょう。立派、立派。
 おふれ書きによると、剥製とあるので、本当の狸君の魂がこもった置物かもしれません。

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 のぞきこまないと、わからないくらい、その周囲の状況にマッチしています。これじゃ、商店街の人たちも、捨てるわけにもいかないだろうなあ。と、ヘンに納得ですが。

 当初、回収期限は、1週間とあり、ぼくは、毎日のように気になっていたのですが、きょう、朝見たときには、まだありました。すでに1カ月あまりが経過、この先、どうなるんでしょう、この狸君の運命は。

 この狸神社、正式には、本陣狸大明神社といい、35年前の商店街100周年のときに、つくられたものだそうです。詳しくはHPを。大福帳をなでると、商売繁盛、そのほかにもおなかをなでると安産とか、ご利益はいろいろあります。

 なら、剥製の狸君の大福帳は、いかがなものでしょうか。

 いやいや、そう考えると、この剥製を、どこかに持っていくのもなかなか勇気がいりますなあ。
 持って帰ってあげてください、持ち主の方。酔いどれ狸君も、すっかり酔いが醒めてますよ、もう。
 
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☆フットボールと政治家、そして中川昭一氏

2009年02月17日

 コンサドーレは、熊本で着々と成果を挙げているようですね。練習試合とはいえ、韓国のポハンを相手に3-2という試合結果が、きょうのスポーツ紙を飾っていました。

 昨夜は、財務・金融担当相の中川氏の進退がどうなるのかと、ニュースを追っていましたが、答えは先ほど出たようです。辞任。会見での醜態が世界に流れてしまった。こんなケースは、過去にあったのだろうか、と、思ってしまいました。この件と直接は、関係ありませんが、政治家は、いつも見られていますからね。きょうの、道新HPのなかで、かつて中川氏を追っていたメディア局のスタッフブログが公開されています。なかなかの力作だと思いますが。

 政治家の話になってしまったので、政治家とフットボールの関係をもう少し。
 たとえば、イングランドプレミアリーグでは、現役の首相や王室の面々が、それぞれにひいきチームを持っていて熱烈な応援をしますね。チェルシーのような名門チームは、だから、大金をどんなにつぎ込んでも勝とうとする。これは、フットボールが、生活の一部というか、文化となっているからでしょうね。そして権力とも結びつく。イタリアも同様。チームの勝ち負けが、政局や政策にまで影響を及ぼすこともないとは、いえませんから。

 こうしたフットボール文化は、日本にはありません。日本のプロスポーツで言うなら、一番政治家との関係が深いのが大相撲ですね。天皇制とも非常に強い関係があるので、ぼくはかねてから大相撲の改革を言うなら、政治家と力士、天皇制と日本相撲協会の問題にまで行き着かなければ解決しない、と思っています。

 その大相撲の関係で中川氏と何度か酒席をともにさせていただいたことがあります。十勝の横綱、大乃国と北勝海の後援会長は、それぞれ中川昭一氏と鈴木宗男氏。土俵の上でも2人の横綱はライバル同士だったので、中川氏と鈴木氏の代理戦争、なんていわれたこともありました。

 ただ、大相撲にのめりこんでいたのは、鈴木氏の方でしょう。鈴木氏もその後、逮捕、起訴、有罪判決を受ける事件のせいで、相撲界からはすっかり姿が見えなくなりました。いろいろな批判もあるでしょうが、北勝海は、鈴木氏のことを尊敬していたし、人生の師として仰いだ時期もあったと思います。

 一流のスポーツ選手になれば、一流の人たちと交流でき、自分もさらに一流になる。ときには、政治家とのお付き合いも出てくるでしょう。
 ひいきにしてくれた政治家が悪いイメージで見られると、政治家が応援していた選手まで、影響を受けてしまいます。選手の経歴に傷がつくことだってあります。

 だから、政治家は、いつも自分の行動に責任を持っていなければなりません。世界中に流れる会見を、中川氏は軽くみたのでしょうか。

 中川氏への批判は、止まらないことでしょう。ただ、自戒の念を込めて、ひとつだけ、このブログで意思表明したいと思います。それは、現場の記者のことです。中川氏の醜態会見は、アメリカのTV局の電子版に発表されてから、日本に返ってきたという経緯があります。これは、ほめられたことではないでしょう。

 会見中に様子がおかしいのなら、当然、彼を取材している日本の記者、あるいは記者のまとめ役が、様子のおかしい中川氏に何らかの質問をするべきでしょう。たとえば、「お体の具合が悪いのでは」と言って退席をすすめる。アメリカの記者は、様子のおかしい中川氏になぜ、質問しないのかと、日本の記者にも??を投げかけたに違いありません。

 長老クラスの記者は、どんな会見でも何人かはいたものですが、今はどうなのでしょう。昔だったら、朝青龍の身勝手な発言をその場でやめさせるような力のある長老が必ずいました。
 おかしな会見だった、とテレビの映像で何度も流される中川氏。質問する記者たちにも、責任の一端があったことを少しは、自覚すべきでしょう。

★アイスホッケー西武優勝

2009年02月16日

 一日古いネタで恐縮です。昨日のアイスホッケー全日本の決勝は、西武の劇的な逆転勝ちで終わりました。廃部が決まっている名門チームの男たちが、死力を尽くしたような試合でした。アイスホッケーファンとしては、いまさらながら納得できない西武の廃部でしょうが。

 第二ピリオドまでをテレビ中継で見ていて、うーん、これは、クレインズかなあ、と思っていたのですが、結果を見て、びっくりでした。西武が、2点のビハインドをはねかえして、3連続ゴールで2年連続の王者に輝いたのです。

 ダイドーアリーナと名前を変えているリンクは、いくつものドラマがあった元東伏見アイスアリーナです。このリンクで選手たちが、歓喜と悔し涙をどのくらい流したことでしょう。
 1984年8月10日の開場に、ぼくは、西武グループからお披露目の会に呼ばれ、そのすばらしいリンクに目を見張ったものでした。

 当時品川プリンスのリンクは国土が使用し、オーナーの堤さんは、西武の試合も国土の試合も熱心に見ていたものです。ときには、セットの入れ替えを指示したり、選手の出来、不出来の採点もしていたと
聞かされました。堤義明氏の冬季競技への功績は、ご存知の通りですが、2005年、インサイダー取引で有罪判決を受けてからは、一線を退いてしまった。
 
 そこから日本のアイスホッケー競技の衰退が始まったのは、見逃せない事実でしょう。国土がなくなり、西武にチームが一本化されてから、こんなに早く廃部の知らせを聞くとは。選手たちの気持ちを思うと、かける言葉がありません。

 選手たちにできることは、リンクで精一杯のプレーをみせ、アイスホッケーの魅力を、これでもか、これでもか、と観客やテレビの前のファンに見せることしかないでしょう。
 そういう意味では、今回の決勝戦、みごたえがありました。
 さて、今後どのような形で、西武の選手たちが競技を続けていくのか、あるいはやめるのか。ぼくとしても、しっかりと見届けなければならない、と思っています。

☆この時期の報道は

2009年02月15日

 現役のスポーツ記者として取材をしていたころ、毎年思うことがありました。シーズンオフこそ、記者の実力が試される、と。と、同時に、読者は、シーズンオフだということを承知の上で、読む必要がある。とくに、サッカーとプロ野球は、そうなんですね。

 少し自虐的に始めてしまいました。きょうは、日曜日。道新スポーツを広げると、「イイコト」しか書いてませんもんね。
 
 クライトンは、司令塔でいくそうです。ぼくは、先シーズンから繰り返して言っていますが、クライトンは、ゲームの中心であるべきです。2年目となって、ほかの選手の信頼も厚くなるでしょう。ダビと、クライトンは同居しないほうが、ゲームは運びやすいと思っていましたから。

 グアムキャンプ不参加のブランクもないそうです。よかった、よかった。

 さて、その上の記事は日ハムの小谷野が紅白戦で満塁弾を打ち込んだ、というお話。景気のいいお話ではありませんか。オフの新聞は、いいことばかりです。

 結構、大変なんですよ、これが。スポーツ記者も4年くらいやっていると、抜くところとか、押すところとか、その加減が分かってきますが、最初は、いっつも全力投球、そして直球勝負。一生懸命書いていても読者に喜ばれないときもあるし、手を抜いていたのに、ホメられることもある。まあ、その微妙な感覚を分かるようになると、抜きネタも取れるようになるわけです。

 さて、割り引いて読んでも、今年のコンサはいけそうな気がしますが。いかがでしょうか。15日の練習の結果は、まだ入って来ていませんが、明日の朝刊を楽しみにしましょう。

 終わりに。「イイコト」と良く似ている相撲界の隠語に「イイトコ」というのがあります。これは「イイトコ売り」とつなげて、使います。あいつは、「イイトコ売ってるんじゃないの」とか、どうせ「イイトコばかりだろう」
といった具合です。つまり、「いい加減」という言う意味。

 結構微妙ですね、イイコトとイイトコは。そして世の中も。

【連載】久慈次郎とベーブルース(4)

2009年02月14日

 「では久慈さん、来週の金曜日あたりにうかがいます。大阪に知り合いがいるもので、道案内してもらいます」
 「そうですか、結構、わかりにくいですよ。家内に迎えに行かせましょうか、近くの駅まで。梅田から阪急電車に乗ってもらえば、すぐですから」
 「いいえ、住所がわかってますので、さがしていきます」
 ぼくは、そんな会話を電話で交わして、二世の久慈次郎さんに会うために大阪に向かいました。
2007年のペナントレースの決着がついた、12月の中旬のことです。

 久慈さんの言うとおり、なかなかその家には、たどりつけません。ぼくの友人は、道南出身のS君で、大阪と道南を行ったり来たりしながら、仕事をしていて車にはカーナビ。住所を入力すれば、簡単に行けると思ったら大間違い。とうとう道の行き止まりで、ナビは、ぷっつり動かなくなってしまいました。
 
 「これ、壊れているんですかね。この急坂を登ったところ、とナビは差してますけど。階段じゃ登れませんから、車は」
 「うん。わかってるって。たぶんこの上だと思うよ。いいよS君、君は帰って。あとはぼくがさがすから」

 と、そこから10分ほど、急な階段を登ったところにある住宅街に久慈邸は、ありました。久慈邸というのにふさわしい門構えと、庭。チャイムを押すと、奥さんが出迎えてくれました。

 兵庫県宝塚市塔の町。閑静な住宅街です。玄関で会った久慈さんは、亡くなった久慈次郎さんを連想していたので、大柄な方かと思っていましたが、そうでもありません。
 奥さんが居間に通してくれました。

 「どうも、突然ですみません。マー君のこと、ご存知でしょう? マー君をずっと追っていたら、亡くなった久慈さんに引き込まれるように、ここに来てしまいました。田中将大君の実家は、すぐそこの伊丹市なんですよ」
 「ええ、知っていますよ。甲子園、見てましたから。伊丹出身ということも、ね。いい選手ですね、彼は」

 「ちょうど、昨年の決勝があったのが、8月19日。いま、彼のことを本にまとめようとして、いろいろ取材しているんですが、8月19日が久慈さんが、あの事故に遭われた日だということを知りまして。それに、亡くなった日が21日なんですね。19、20日と、77年前に意識不明だったときに、田中将大君とハンカチ王子は、死闘を繰り広げていたわけで」
 ぼくは、何を言おうとしているのか、少し混乱していました。
 別に久慈さんが77年前に亡くなったことと、田中将大は、直接関係しているわけでもなんでもない。ただ偶然に同じ日付だっただけです。

 でも、気になっていたのです。こんなに近くに久慈さんの2世が住んでいた。
 久慈次郎。球聖と書かれた書物も多くあります。久慈さんが、どうして、そこまで言われるのでしょう。

 初めての訪問なのに、奥さんの雅子さんは、いままで何度かお会いしている方のように、すぐにぼくの疑問や質問を受け入れてくれました。

 それから約4時間。驚くべき事実の連続でした。(つづく)
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<1月に亡くなった2世の久慈次郎さんと奥様の雅子さん。話は驚かされることばかりでした>

★古田君に期待したい

2009年02月13日

 熊本キャンプ2日目、8対8のミニゲームを行ったようです。14日の清水戦に向けて、実戦を想定した練習が始まっていますね。そのなかで、17歳の新人、古田君の目には、どう映っているのだろう、トップチームは。若い彼のプレーを早く見てみたいものですね。

 古田寛幸君は、札幌出身で2006年から08年まで各年代の日本代表。170センチ、64キロと言えば、今の子供さんたちの中では小柄な部類でしょう。テクニックも見事ながら、アグレッシブな気持ちがいいと聞きます。入団会見でも、一番わくわくして話していたのが印象的でした。

 2日目は、ダニルソン、中山、藤田がけがで別メニューだっだそうです。と、いうわけで、古田君にも出番が回ってきそうです。

 石崎さんは「あせることはない。いろいろな選手を見たい。今は、適性を見極める時期だから」と話しています。
 その古田君、現場の記者からの情報によると、「プロでどこまでやれるか、自分自身で確かめたい」と張り切っているようです。
 若い選手はいいですね、たとえミスしても前へ進んでほしい。楽しみです、古田君。

☆サポーターズ集会をどう生かす?

2009年02月12日

 昨日のサポーターズ集会は、いかがだったのでしょう。デスクワークが入っていたため残念ながら出席できませんでしたが、道新スポーツの記事を読むと、さまざまな意見が出たようですね。少しでも生かせるものがあるなら、すぐに実行に移してほしい。新しいファンをつかむためにどうすればよいか、みんなで話し合ったことは、決して無駄なことではありません。

 4時間半の議論ですか。あとで、詳しく教えてもらいます。矢萩社長も初めてのことなので、お疲れになったのではないのしょうか。
 
 年間30万人を集めるにはどうしたらよいか。「勝てばよい」は、当たり前なのですが、勝てないときに、どうファン・サポーターをつなぎとめるか。記事にあるような「総合案内書」の設置には、大賛成です。
 
 厚別は、厚別の良さがあっていいのですが、ドームで試合を行ったとき、ファンの方が日ハム戦との対応の違いを指摘されることがよくあります。
 「日ハムの時にはこんなに、待たされない」
 「日ハムの試合の方が場内サービスがいい」

 そんな声に対しては、つい「興行という面で見れば、プロ野球の組織とJは格段に違う。市民クラブを目指しているコンサは、それでもよくやっているじゃないか」と、愚痴を言いたくなります。

 先日は、別の調査で、コンサファンの高年齢化が、指摘されていました。新しいファン・サポーターが増えない。それは、魅力ある試合が少ない、魅力ある選手があまりいない-そんなところに原因があるのではないでしょうか。あとは、普段の生活の中に、どうコンサドーレを取り入れてもらえるか。

 議論の中でいろいろなアイデアが出たと思います。財政面でもたくさんの意見があったことでしょうが、今の世界情勢のなかで、現体制を取るなら、大口スポンサーに頼る、という選択肢はありませんね。

 それならファン・サポがお金を出しやすい状況をどのようにして作れるか、でしょう。
 時間はあります。30万人到達のために何ができるのか、考えてみたいと思います、真剣に。


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<今年も、こうやってたくさん選手たちのCMがマチに出ることを望みます>
 

 

★A・ロッド薬物使用の衝撃

2009年02月11日

 ヤンキースのアレックス・ロドリゲスの筋肉増強薬の使用。最近のスポーツスキャンダルの中では最大のショッキングな事件だと思う。この事実をどうとらえればいいのだろう。一流選手ほど、その悪魔の薬に染まりやすいということと、米大リーグ、つまりベースボールそのものの持つ、深く暗い病巣を見たような気がします。

 2001年からのレンジャーズ時代に使用したことを告白したA・ロッドは、ヤンキースに移籍してからは使用していないことなどを強調したうえで、使った理由について「230億円もの大型契約に重圧を感じたからだ」と、話しています。

 Aロッドといえば、ぼくも大好きな選手の一人で、子供たちにも大変な人気があります。ぼくは、2年前にヤンキースタジアムをシーズンオフに訪れる機会があったんですが、そのときに、球場の方にAロッドのロッカールームまで入れてもらったことがあります。一緒に入った米国人も大喜びでした。憧れの選手なんですね、ファンにとっては。

 驚いたのは、薬物使用のその理由でした。Aロッドともあろう選手が、なぜ自分の体に害があることを知りながら、薬に頼るのか。「少しでも飛ばしたい」という、その気持ちが、薬に手を伸ばすことになったのでしょうが、そこには、一流でいることの難しさ、重圧が見えてきます。

 プロスポーツ史上最高の契約金をもらっておきながら、薬に手を出すー。と、いうことは、大リーグの中には、もっともっとそうした薬物に染まった選手たちが、いると思われても、不思議ではありません。

 以前、ぼくは大相撲界での薬物疑惑をこの欄に書きましたが、一流と思われている力士ほど、「勝つためなら何をやってもいい」と、いった気持ちを、本音として持っていることに驚いたことがあります。

 Aロッドは、今後どうなるのか。AP通信によると。
 「これまで委員会はロジャー・クレメンス投手やマーク・マグワイア氏に公聴会での証言を求めてきたが、委員長は、米国は、野球と自身を裏切った人間を審問する前に、失業や市場対策に焦点を合わせるリーダーを必要としている」として、召喚は、しないことを明らかにしています。

 たしかに過去のこととして、考えれば、これはこれでいいのでしょうが、何か釈然としないものも感じます。 

 ところで、WBCも近づいているので、昨年読んだ本の中で、非常に面白かったこの本をご紹介しておきます。
 前回のWBCの際に日本に不利な判定を下した審判の話を引き合いに出し、「イカサマとステロイド騒ぎ」の大リーグを見事にこき下ろしています。そして日本野球のすばらしさにも触れています。
 もし、お時間がありましたら、手に取ってみてください。WBCの本質も見えてきます。

☆帰ってきたぞ、クライトン

2009年02月10日

 グアムキャンプから帰って来た選手たち。その中に、成田で合流したクライトンがいた。役者はそろった。あとは、実戦が待ってます。

 道新スポーツの加登久夫記者の表現には、笑わさせられました。
 「夢でも幻でも、まやかしでもない。クライトンが、元気に新千歳空港のゲートから現れた」
そこまで、言わなくても・・。ただ、今のコンサドーレのチーム状況を考えると、ここにクライトンがいるのと、いないのでは大違い。勝ち☆にして、5勝分くらい違うのでは、と思っていました。

 親指を二本アップさせて「イエーイ」とポーズを取るクライトンを見ていると、おいおい、心配させやがって!と思わず思うのは、僕だけではないでしょう。

 父親の看病のためにブラジルに帰国していたので、必ず帰ってくるとは思っても、そこは評価の高い助っ人。ほかのチームのオファーがあってもおかしくないですからね。

 心配なのは、ここまでのコンディション管理です。本人によると体重はベストの87キロをキープしているそうです。
 12日からは、ベストでのぞめるわがクラブ。開幕まで1カ月を切っています。とにかく、よかった、と安心して、熊本キャンプの様子を見ることにしましょう。

【連載】久慈次郎とベーブルース(3)

2009年02月09日

 2006年の夏は、全国のスポーツファン、いや、全国の人たちが、その2試合に感動しました。8月19日、夏の甲子園決勝戦、駒大苫小牧-早稲田実業戦。田中将大と斎藤佑樹との投げ合いは、15回を終わっても決着がつかず、翌日再試合に。その試合も、手に汗を握る展開でした。
 勝ったのは、ハンカチ王子斎藤の早稲田実業。そのとき、テレビの前の人たちは喜んだり、叫んだり、そして涙を流したり。ただ、駒大苫小牧の関係者で、ひとり、その瞬間に笑っている人がいました。それが、田中将大でした。最後の打者となった田中将大は、斎藤の外角への直球に空振り三振、でも一人だけ笑える贅沢な時間を持っていたのです。
 その笑顔を見て、僕は、彼のことを徹底的に追いたくなりました。なぜ笑えたのかと。

 8月21日、田中将大たちと選手たちは、宿舎となっていた伊丹空港そばの「ホテルくれべ」で、本当にいい笑顔を見せていました。勝っていれば、歴史的な夏の大会3連覇。しかし、これほど優勝に近い、準優勝はありませんでした。なにしろ2試合も決勝戦を戦ったのですから。
 田中将大の実力については、今の楽天での活躍を見ると、まるで中学校時代から約束されていたように思えますが、そんなことはありません。いくつもの修羅場と、幸運な場面を通り抜けています。打者の手元で曲がって落ちるスライダー。130キロ台後半のスライダーを投げられるのは田中将大しかいませんでした。
 8月19日と20日という2試合の日付が記憶に刻まれていました。僕は、札幌に帰ってから、田中のこれまでの足跡や、両親との会話などを思い出し、メモにしていました。いつか記録に残したいなあ、と思っていたからです。

 それから半年後、彼が楽天へ行くことが決まり、野村監督の下で、可愛がられるようになってから、再び、思ったことがありました。
 「それにしても、運の強い子だなあ」と。
 2007年、オールスター後の仙台球場。楽天は田中が先発で0-5と負けていながら、逆転勝ち、田中にも勝ち投手がついた試合がありました。野村監督が「マー君、神の子、不思議な子」と、言ったソフトバンクとの試合です。

 その試合を、僕は目の前で見ていたんですね。田中将大の話を北海道新聞出版局から出そう、とほぼ決まっていたので、仙台に通っていたのですが、あの名文句を野村さんは、僕の目の前で言ってくれました。「そうですね、野村さん。彼は、運がいい子なんですよ」

 その逆転勝ちの日が、どういう日だったかは、その後出版した「田中将大ヒーローのすべて」に書いてありますが、札幌に帰ってから、出版局のI部員が、別の本の出版で久慈次郎の話をまとめていました。
 「久慈さんは、函館では有名人。でも今の人は、あまり知らないかもしれませんが、久慈さんがいなかったら沢村投手もスタルヒンも活躍していたかどうか。ジャイアンツの初代主将になるはずだったんですからね。円山球場で亡くなったのは黒田さんもご存知ですよね」

 「うん、死球を受けたんだっけ。いつだっけ」
 そうして、記録を探すうちに、1939年8月19日という日が分かりました。亡くなったのが2日後の21日。なんとなく、僕の頭の中に、前年2006年の8月19日という日付が記憶されていたので、びっくりしました。
 「そうか、ちょうど77年前の同じ日に円山球場で惨事が起きていたんだなあ」
 久慈は早大の捕手から函館オーシャンに進んだ選手。早稲田実業の斎藤と投げ合ったのも何かの縁だなあ、田中将大も中学時代までは捕手、そして円山のスターだったんだ、と、ここまで考えたとき、出版局のI部員が、言うではありませんか。
 「黒田さん、久慈さんの息子さんが、生きていて、この間、電話で連絡したんですよ、確か、関西の方に住んでいたと思いますけど」
 「なんていう名前?」
 「それが、同じ久慈次郎、と言うんですよ。父親が亡くなったとき、おなかの中にいたのが、その長男で、母親が同じ名前をつけたんだって」
 「へー、同姓同名か。あんまり、知られてないよね、そのこと」
 僕は、しばらく考えて、その久慈次郎さんに連絡を取ることを考えたのです。田中将大のことを見ていたのかなあ、と思って話がしたかったのです。

 電話番号は、簡単に調べられました。
 「久慈さんですか、あのー、北海道新聞の・・・・」
 「どうぞ、マー君の試合見ていましたよ、何か聞きたいことがあれば、どうぞ、どうぞ」
 「場所は、どこですか、宝塚市ですよね」
 
 番地を聞いてまた、驚いたのです。なんと、田中将大の実家のある伊丹市から車で10分と離れていない宝塚市に二世の久慈次郎さんは、住んでいたのです。(つづく)

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★いける、センターライン

2009年02月08日

 グアムキャンプは8日で打ち上げ。9日には、選手たちが帰札します。7日の練習試合(神戸)を見た記者の記事を総合すると、まず、センターラインの助っ人たちは、期待通りの動きをしていたみたいですね。第一次キャンプ、ご苦労さまでした。昨シーズンと比べてはなんですが、かなり胸をなでおろしました。

 FWキリノ、MFダニルソン、そしてDFチョウ。ここにクライトンもいると思うと頼もしい。いずれも、過去の経歴からすると、J2の中では、抜きん出る存在となってくれることでしょう。チョウに対しても「守備はよかった」と、評しているので、石崎さんの計算が着々と積みあがっているような気がします。

 石崎談話は、いつから広島弁の聞き書きになったんでしょう。
道新スポーツで、練習成果を総括した石崎監督の談話は、「昨年とは違うサッカーといわれている。選手たちも半信半疑だろうけど、ここでの1勝1分けは、自信になるじゃろ」。なるじゃろ、ですから。

 こうした言葉の表記による個性の表し方は、選手の場合は比較的多いのですが、指揮官の発する言葉が、そのまま伝わるのは、珍しいかもしれません。それだけ、記者も石崎さんの指導方法に愛着を感じているのかもしれませんね。

 あとは、助っ人たちの得点シーンを見たいものですね。計算可能な戦力となっているだけでも、昨年の今頃とは、明らかに違います。ひとつひとつステップを踏みながら、新しいチームの個性が出来上がるのを見ていくのも楽しいものですね。

【連載】久慈次郎とベーブルース(2)

2009年02月07日

 「久慈次郎」という名前をご存知でしょうか。函館の方ならご存知だと思います。ですが、札幌在住でもなかなか、その人物と功績を正確に説明できる人は少ないのではないでしょうか。
 戦前から、函館は野球の先進地でした。函館太洋(オーシャン)倶楽部は、全国都市対抗野球で活躍する名門チームとして全国に知られていました。その捕手を務めたのが久慈次郎です。日本のプロ野球は読売新聞社が主導して誕生するのですが、そのジャイアンツで、最初に主将になるはずだったのが、久慈次郎だったのです。

 野球ファンなら現在でも久慈の名前が毎年、アナウンスされるのを知っているかもしれません。
 都市対抗野球の最後に発表されるのが、橋戸賞と久慈賞。久慈賞は敢闘賞に当たり準優勝チームから選ばれます。橋戸賞は、都市対抗野球を創設した橋戸信(橋戸頑鉄)にちなんでいて最優秀選手に贈られるものです。久慈の名前は大会が続く限り、受け継がれていくのです。
 さて、その久慈次郎は、青森市に生まれています。1898年、明治31年のことです。盛岡中学(現在の盛岡一高)で野球を本格的に覚え、早稲田大学に進学しました。大学野球は早稲田、慶応、東大が引っ張っていたころです。恵まれた体格のうえに、肩が強く、捕手として大学野球を代表する選手でした。

 卒業後、いくつかの誘いを断り、函館に来る決意をします。北海道電力の前身、函館水電に入り、早稲田の先輩がいた社会人野球のクラブチーム、函館オーシャンに入部しました。

 その後、運動具店を経営しながら、チームを強化し、1928年には、第2回全国都市対抗野球大会に初出場、その2年後の第4回大会では、優秀賞を受け、「オーシャンに久慈あり」と全国に名をとどろかせたのです。

 1931年、大リーグチームが来日して開催された日米野球大会に出場、その3年後の1934年には、「ベーブルース御一行」といわれた豪華メンバーの大リーグ選抜が再び来日し、全国で大歓迎を受けました。その年の11月8日、函館湯の川球場では、久慈の努力が実って、大リーグ選抜対全日本代表の試合が行われました。この全日本対大リーグ選抜シリーズ(全16試合)のメンバー表が、75年ぶりに、多くの人の目に触れることになったのです。
 
 函館千代台球場前には、久慈の銅像があります。手前にあるボール型の碑には、久慈がどんな野球選手で、どんな活躍をしたのかが、刻まれています。
 函館に生まれ育った僕の友人は、こんなことを言っていました。
 「小学生や中学生でも、みんなクジの名前は知っていたよ。函館に、名選手、キャッチャーがいたとね。クジのようになるんだよ、と親や先生に言われた。クジの名前は函館市民にとっては、野球の神様みたいなもんですよ」
 クジのことを久慈次郎と正確に漢字で書けなくても、函館市民には身近な存在と言えるでしょう。さて、僕は、この久慈のことを知識としては知っていましたが、円山球場で、どんな死球を受けて亡くなったのかという、その詳細については知りませんでした。

 調べようとしたきっかけは、夏の甲子園の球史に残る熱戦、2006年の駒大苫小牧と早稲田実業が対戦した決勝のあの試合でした。1939年8月19日、死球を受けた久慈は、こん睡状態が続き、亡くなったのは、2日後の8月21日でした。

 それから77年後のちょうど同じ日、2006年8月19日、田中将大は早稲田実業のハンカチ王子こと、斎藤佑樹君と投げ合い、延長15回、引き分け再試合となる死闘を演じたのです。偶然と言えば、それまでですが、久慈次郎の糸をたぐればたぐるほど、運命的なつながりを感じたのです。(つづく)

 

【連載】久慈次郎とベーブルース(1)

2009年02月06日

<久慈次郎とベーブルース(その1)>
 2009年1月1日付け、北海道新聞の社会面の記事をお読みになっていただけたでしょうか。「ベーブルースらがサインしたメンバー表が発見」という見出しで、函館オーシャンの名捕手、久慈次郎さんが、1934年(昭和9年)に、来日したベーブルースをはじめとする大リーグ一行と試合で交わしたメンバー表が約75年ぶりに発見された、という記事です。
 僕が2年間にわたり、亡くなった久慈次郎さんの4男のご家族から取材をしていて、現存することが分かったものです。「ベーブルースの家」ともいわれるニューヨーク・ヤンキースタジアムが改築される今年、日本の野球の原点を探ることができるメンバー表です。
 その後、取材を続けていた4男の久慈次郎さん(父と同名)が記事が出た直後に体調を崩され、お亡くなりになるという突然の悲報もありました。このブログで、記事に書ききれなかった秘話やその後の取材について、みなさまにお伝えしようと思います。
 J2の試合も近いので、随時ということにさせていただきますが、長い連載になるかもしれません。お付き合いいただければ幸です。

 まず、記事を読んでいない方のために、記事となった原稿のオリジナル版をアップさせていただきます。1月1日は、紙面の都合で、若干短くなっていた部分があるので、こちらの方が詳しく書いています。
 また、インターネット配信では、メンバー表の写真がアップされていませんでしたので、改めてここにアップさせていただきます。
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 往年のスターたちの直筆のサインがあるこの紙を手に取ったとき、ぼくは、なんともいえない温かな気持ちと、ルースやゲーリッグが、目の前に現れたような気がしました。フィールド・オブ・ドリーム! それは、史料を提供していただいた久慈ご夫妻も同じだったと思います。


 以下が、オリジナルの原稿です。

=北の球聖・久慈次郎とベーブ・ルースが交わした日米野球のメンバー表が七十五年ぶりに発見=野球創設期の貴重な史料=宝塚市の久慈の四男が保管

 日本のプロ野球創設の機運を高めた一九三四年(昭和九年)十一月の日米対抗野球で、主将として全日本を率いた当時函館太平洋倶楽部(函館オーシャン)の久慈次郎捕手と、大リーグ選抜の主将ベーブ・ルースが交わしたメンバー表が七十五年ぶりに兵庫県宝塚市の久慈の四男宅でみつかった。ヤンキースのルー・ゲーリッグをはじめ、往年の名選手たちがサインし、シリーズ成功を祈るカードも添えられていた。

 こうしたメンバー表があったことは、知られておらず、財団法人野球体育博物館(東京)は「主将だった久慈しか手にできない歴史的価値のある大変貴重な史料」と驚いている。

 久慈は一九三九年八月、札幌・円山球場で死球を受けて死去。その三カ月後に生まれた四男で同姓同名の久慈次郎さんが、五年ほど前に自宅の仏壇の引き出しの奥にあるのを発見し、保管。昨年十二月、同博物館が「本物に間違いない」と確認した。

 「THE AMERICANN TEAM」と青いインクでタイプ打ちされたメンバー表は、
二十センチ四方の黄色がかった薄い紙に投手から外野手まで十五人の名前があり、十二人がペンでサイン。ベーブ・ルースの特徴ある「B」や小文字の「E」などがはっきりと読み取れる。

 カードは「私たちの友人の JIRO KUJI」への文面で始まり、シリーズの成功を「BANZAI!」のローマ字で表し、健闘を誓い合っている。

 日米対抗野球は当時、読売新聞社が主催し、全国で十六試合を実施。全日本は全敗した。しかし、十一月二十日、静岡・草薙球場で行われた試合でマウンドに立った当時十七歳の沢村栄治(京都商)を、三十六歳の久慈捕手が好リード。沢村は9三振を奪う力投を見せ、ゲーリッグに打たれた本塁打だけの0-1で敗れた。

 大リーガーたちが沢村の速球にきりきり舞いさせられた伝説の試合は、野球人気に火をつけ、日本のプロ野球創設を早めた。

 自信をつけた沢村は、慶大進学の方針を変え、一カ月後の十二月、日本で初めて設立された職業野球団(プロ)の「大日本東京野球倶楽部」(愛称・東京ジャイアンツ)に入団。後の東京読売巨人軍のエースとしてノーヒットノーランを三度達成するなど、さん然と輝く功績を残し、一九四四年、台湾沖で戦死した。

 一方、久慈は日米対抗野球戦後、ジャイアンツから初代主将に指名され、破格の条件を提示されたが「家業に専念したい」と固辞。函館オーシャンのチーム史などによると三四年三月に起きた函館大火で、多くの市民が家を失い、久慈の運道具店も焼けたことから「野球で函館を救おう」とジャイアンツ入団を断った。同年十一月七日に函館・千代ヶ岱球場で行われた日米対抗野球第二戦は、久慈が開催に力を尽くし、大成功させた。

 それから五年後、久慈は死球を受け死去。母のおなかにいて父と同じ名前をもらった四男久慈次郎さん(69)は、母と姉の手で育てられ、関東などを転々としたという。父と同じように野球選手を志し、東京六大学から誘いを受けたこともあるが「あまりにも大きい父の背中を追うのが苦しかった」。その後、一級建築士の資格を取り、妻雅子さんの出身地の宝塚市で建築デザイナーとして活躍している。

 久慈さんはメンバー表を見ながら「ベーブ・ルースやゲーリッグが父と一緒に目の前に現れたようだった。日本選手が大リーグで活躍するのを天国で見て、父も喜んでいることでしょう」と話している。

 野球体育博物館には、当時の日米対抗野球戦のポスターや入場券、サインバットなどが展示されているがメンバー表はない。同館学芸部で野球史を研究する新(あたらし)美和子学芸員は「プロ野球創設期に久慈次郎の果たした役割は大きい。北海道で野球が盛んになり、WBCに注目が集まるなど、今の野球人気の基を築いた久慈と世界の本塁打王ベーブ・ルースが、交わしたメンバー表が現存している意義は大きい」と話している。 (メディア局・黒田伸)


 この記事のそもそもの発端は、いま楽天で活躍している田中将大投手を円山球場で取材していたときに感じた不思議な「気持ち」からだったのです。(つづく)

★ソンファン、滞空時間の長いジャンプ?

2009年02月05日

 昨日のブログでソンファンのことを期待を込めて書いたら、きょうの新聞で道新運動面、道新スポーツともソンファンの話題でいっぱいでした。31日から別メニューだったソンファンは、昨日は9対9の戦術練習でセンターバックに入って、いい仕事をしていたようです。でも、ジャンプしたら「滞空時間が長い」って、いったいどんなジャンプかいな?

 記事には、「滞空時間の長いジャンプ」という表現がありました。身長183センチ、しなやかな体がジャンプすると、その跳躍力もかなりあるので、空中で体が止まるような感じに映るのでしょう。取材した記者も思わず「滞空時間が長い」と思ったのかもしれません。グアムも韓国も日本も重力も同じですからね、もちろん。

 ソンファンのあだ名は、「ぞうさん」。これは、1月16日の会見で明らかにされたものなんですね。(そのときの動画は、結構人気で今もアクセスが続いてますから、見ていない方はどうぞ
 「ニックネームは何かありますか」
 「ぞうさん、と呼ばれてました」
 ??? 思わず、彼の鼻をながめてしまいましたが、脚が太くて、それで「ぞうさん」と、呼ばれていたとか。サッカー選手の脚は、競輪やスケート選手に負けないくらい太い。その脚力を生かしたジャンプ力が彼の持ち味なんですね。

 コンサのリーグ開始も、すぐそこに来ていますが、気になるのは代表チーム。昨日のフィンランド戦は、相手が相手だということもあったのですが、5-1と快勝しました。ビールを飲みながらの、テレビ観戦も気持ちよかったかもしれません。ビールはキリンですか、キリン・チャレンジカップですからね。

 別にキリンさんばかりを飲んでいるわけではありませんが、ビール会社のスポンサーさんは、サッカーにとって重要です。欧州のクラブでも、数多く付いてますね、スポンサーとして。

 コンサドーレは、もちろんサッポロさん。景気低迷、いや100年に一度の不況と言われていても、チームが勝てば、パァーッとやりたくなるもんです。今年のサッポロさんの消費拡大のためにもぜひ、ひとつでも多い赤☆ではなく、白☆を。お願いします、選手のみなさん。 

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<どこかの空港で見た夕日。デジカメを整理していたら出てきました>

★グアムキャンプ、こんな情報が欲しかった

2009年02月04日

 グアムキャンプもあと一週間。平川弘さんにいつも書いていただいている「燃えろ!コンサドーレ」の4日の記事は、平川さんでなければ書けないことが書いてあり、面白かった。柏を辞めて、札幌に来てくれた石崎監督率いるコンサドーレと、J1柏がグアムのキャンプでピッチが隣同士で練習している、という事実だ。

 そのうえ、柏には、昨年コンサを混乱?に陥れ、退団したアルセウがいる。こんな因縁のクラブが隣にいて、しかも札幌は陥落組、柏は石崎さんの采配で見事J1残留。どうみても、札幌からすれば、顔を合わせたくない相手だろう。それは、石崎さんの首を切った柏サイドから見ても同じだと思う。

 平川さんは、その情景を描写している。グアムに行っていない僕としては、これは絶好のネタだと思うのですが、どこかのスポーツ紙に書いてましたっけ。

 アルセウの尻を見て「同じ人間とは思えないしなやかさ」と表現している平川さん。それじゃ、道新の記事にならないと思ったのか、「ダニルソンは、アルセウとは違ったターミネータのような肉体」と、言ってくれている。


 どちらにしても、J1再浮上へ向けて新外人が最大のポイント。キリノもいいが、僕は、きょうの運動面にも「注目の新戦力」として紹介されているチョウ・ソンファンを一押ししたい。

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<入団会見では、ひとり余裕の受け答えだったソンファン>


 韓国では審判への抗議で6試合の出場停止を食らったとか。お願いだから、それだけはやめてくれ、と言いたいところだが、とにかくプレーを見てみたい。

 楽しみが多いなあ、今年のコンサは。そして、遅ればせながら、クライトンの合流決定を心から喜ぶ僕でした。

★フェルプスの大麻疑惑と相撲協会の対応

2009年02月03日

 大相撲の大麻事件で揺れているときに、北京五輪競泳で8個の金メダルを取った、アメリカのフェルプスの大麻吸引を疑わせる写真が全世界に配信されました。
 これはショックが大きい。大相撲の比ではないでしょう。同時に、国によって大麻への微妙な対応の違いも分かります。大麻吸引が犯罪ではない、とする国もあるからです。

 98年の長野五輪。男子スノーボードの大回転で金メダルを獲ったカナダのロス・レバグリアティは、優勝後の検査で大麻反応が出て、一度は、金メダルを剥奪されました。

 しかし、カナダでは、大麻使用について罰則はないことと、大会時に吸っていなかったことを明らかにし、さらに大麻の影響について「競技のパフォーマンスには効能がない」と主張。それが通って、メダルが戻ったという例があります。

 確かに、カナダや東南アジアのバーなどに入ると、怪しげな香りがしてくることがある。この選手は、出身がカナダだったので、彼の主張を認めるIOCの裁定が下ったのでしょうが、日本人なら法令違反なので、同じ裁定には、ならないかもしれません。

 今日のIOCの判断は、「大麻は、競技期間中の検査で違反した場合のみ処分の対象になる」として、フェルプスに処分を下さない決定をしています。

 ここは、冷静な判断が必要でしょう。大相撲の力士の大麻事件は、相撲界の体質や親方衆の対応に問題があったりと、大きな影響を与えていますが、大麻吸引についての諸外国の判断は、分かれている。
 僕も、20年くらい前の取材で、力士たちの間にステロイド系の筋肉増強剤や、興奮をもたらす薬の使用が広まっている、といううわさを何度か聞いたことがあります。

 実際の証言も聞いたことがあったんですが、その力士は、こう言っていました。
 「いくら、筋肉がついて、一時的に勝てていても、長い目で見ると、体を壊す。それをみな、知っているから、上位を目指す力士は、薬には、手を出さない」
 これは本音かもしれません。もちろん法令に違反した薬の使用は許されるわけはありませんが。

 大相撲の大麻事件と同時に起きたフェルプスの疑惑。タイミングが良すぎるといえば、良すぎますが、新聞に掲載された写真を見ると、北京の8冠もくすんでしまう。
 いったい、だれが、何の目的で、この写真を撮り、どういう経路で掲載されたのだろう?
 僕は、そっちの方が興味があります。
  

☆コンサドーレと沖縄との糸

2009年02月02日

 プロ野球が昨日、キャンプイン。かつて、プロ球団は、高知や宮崎、その少し前は、グアムを中心とした海外で始めることもあったのですが、今は沖縄が主流です。日ハムを受け入れている名護では、昨日は800人もの人が訪れたということですから、ファイターズもしっかりと沖縄に根を張っている、ということでしょう。
 
 

 コンサも沖縄からいい戦力をもらいました。道新スポーツで連載している「09新戦力」の2回目は沖縄大から来た上原慎也(22)の記事。50メートルを5秒7で走るというから頼もしい。ドリブルの速さと、ただ走るのでは大きく違うでしょうが、瞬発力に大きな期待が持てます。相手と1対1になったときに、どう抜けるか。脚は大きな武器ですね。
 
 記事の中で元日本代表監督でFC琉球の総監督をつとめるトルシエからも誘いを受けていた、という部分がありました。「Jでやりたいんです」。そう言った上原は、故郷では横断幕も張られるほどの祝福を受けて札幌に来たといいます。
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 会見のときも、からだ中から「やる気」がみなぎっていました。186センチという身長も魅力でしょう。そして、彼が札幌行きを決めたもっとも大きな理由が「カズさんと同じチームに行きたい」だったとか。

 そう、上里一将のことです。彼は宮古島の出身。宮古高校で名前をとどろかせていたので、上原もよく知っているそうです。上里は、2005年夏のけがで、一年を棒に振ったものの、今年もあの左の一発は、目を見張るものがありました。

 こうして、自分の故郷の選手が活躍しているから、遠い雪国まで来てくれる。うれしいじゃ、ないですか。こうなったら、沖縄での一戦、彼も出てくれることでしょうから、見に行きたいところですね。

☆大相撲の大麻事件は氷山の一角か

2009年02月01日

 大相撲の大麻事件がまた起きました。若麒麟の所持容疑。けさの朝刊には、外国人から購入したこtなどが明らかになっています。昨年のロシア人力士の廃業で、力士たちは、「これはやばい」と思っていたはずなのに、なぜ再び起きたのか。大相撲の伝統、そして「国技」としてもてはやされていた悪しき習慣と「伝統」は、そう簡単には、治らないという事実を突きつけられたような気がします。

 昨年の力士暴行死事件はいま裁判中。大相撲界は、いわば執行猶予期間中のようなものなのに、なぜ法律違反を犯すのか。大麻吸引は、件の事件に比べれば罪の度合いは小さい。でも、なぜ危ないことを分かっていながら、大麻に手を出すのか。この事件の根深さと、大麻汚染の範囲は、力士の間にまだまだ広まっているのではないか、という疑念を持ちます。

 力士だから許される、そうした甘えは、確かに今もあります。大相撲を10年以上取材していると、「お相撲さんだから許される」といった考えが、この世界にあることに気づかされます。過度の飲酒や、「かわいがり」の名を借りた、リンチに近いけいこ。そうしたものを日々見ていると、取材している方も感覚がまひすることがある。厳密に考えると結構法律違反は多いのに、それを「見て見ぬふり」をしながら、「お相撲さんだから」と許してきた僕たちにも、責任があると思います。

 若麒麟の師匠の尾車さんは、現役時代に「ペコちゃん」の愛称で人気のあった大関琴風。僕と生年月日が2週間ほどしか違わないため、なんとなく親近感を持って取材していたのですが、昨日の会見を見ていて「やはり大相撲の世界だなあ」と感じた言葉がありました。

 罪を犯した弟子に対して「ぶん殴ってやりたい」。この言葉は、まさに大相撲界の体質と全体を言い表しています。殴ればいいというものではない。それが日常だから、さまざまなトラブルが起きる。強いものは、殴ってもいい、というのがこの世界の慣わしで、それを大相撲を支持する多くの日本人は許容してきた面もあると思うのです。


 殴っても、強ければ尊敬されるし、お金もたくさん入ってくる。だから、強くなったら、下の力士に対して殴って教え込む。この秩序を壊すのは、大相撲の土台から変革しなければならないかもしれません。そこには、大相撲の文化を根底から覆すくらいの覚悟がないと、到底この社会は変わらないと思います。

 そんなことを書いていると、いま「若麒麟を神奈川県警が送検」のニュースが入ってきました。力士が警察のお世話になる事件は、これを最後にしてほしい、そう願わずにはいられません。

  

プロフィール

プロフィール

黒田 伸(くろだ・しん)
昭和32年、福岡県久留米市生まれ、千葉県船橋市育ち。早大卒。北海道新聞社メディア局在籍。今まで、アイスホッケー、サッカー、大相撲、野球など様々なスポーツの取材を行ってきた。過去には、横綱大乃国の婚約をスクープしたことも。著書の「田中将大ヒーローのすべて」はベストセラーに。その他「怒れ、泣け、そして笑え- 松村一郎の破天荒芸人記 -」などの著書がある。

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