【連載】久慈次郎とベーブルース(5)
2009年02月28日
僕の目の前にいる久慈次郎さんは、70年もの前の自分の父親の死をどうとらえていらっしゃるのだろう。僕の聞きたいのは、その一点でした。1939年の8月19日、父・久慈次郎さんは、キャッチャーからの送球が右のこめかみに当たり、2日間、意識を失って、そのまま還ることがありませんでした。
送球といっても、2塁手をけん制しようと、捕手がすばやい投球をした瞬間でした。久慈選手は、四球を選び、一塁に歩き出そうとしたとき、代走で出ていた2塁の選手の離塁が大きいのを見て、捕手がけん制したのです。
こうしたけん制で、打者に当たったケースが、近年でもありました。2006年8月、西武の涌井がソフトバンクと対戦した試合。西武の攻撃中に、打者が捕手のけん制球を後頭部に当てられて、倒れこむというシーン。僕は、たまたまこれをニュースで見ていたのですが、幸いヘルメットをしていたおかげで、打者の水田は、大きなけがはなかったのです。
2世の久慈さんは、僕から少し目をそむけながら話しました。
「あの時代は、ヘルメットも何もなかった時代です。父も、今なら命を落とさずにすんだのでしょうが」
「そうですね、今なら助かったでしょう。円山球場に行かれると、今でも、複雑な思いをされるのではないでしょうか」
少し、空白がありました。久慈さんの表情が変わったようにも見えました。僕は聞いてはいけないことを聞いてしまったのか、と思いました。次の言葉に驚きました。
「行ったことがありません、円山には。行こうとも思いません」
そうだったのか。僕は、てっきり何度か円山に行かれているのだと、思っていたのです。自分が生まれる前に亡くなった父、目の前の久慈さんは、その場所にさえ、行ったことがない、いや行きたくないのだ、ということを聞き、再び、70年前の惨事が目に浮かぶようで、言葉を失いました。
奥さんの雅子さんが、これまでのいきさつや、ご家族のことを話してくれました。
話の中で、「面白いものがあったんですよ」と、教えてくださいました。
「ベーブスールや、ゲーリッグのサインがあるメンバー表があったんです。ほら、これです」
雅子さんが、居間に戻り、持って来た資料の中に、一枚のコピーがありました。それが、1934年の日米対抗野球に主将として出場した久慈次郎とベーブルースら、きら星のごとく輝く「大リーグご一行様」がサインをして交換したメンバー表だったのです。
「えー、こんな貴重なものが。これ、世間に出たことがあるんですか」
新聞記者根性は、つい、こうしたことを聞きたくなります。「ほかで、報道されたことは?」と。
「いえ、いえ、ぜんぜん。お宝探偵団に出そうと思ったんですがね」
「えー、えー。本物は、どこにあるんですか、ぜひ、ぜひ見せてください」
「いいですよ。でも、ここには、ないんです。もし、家が火事にあったり、何かあったときのために、銀行の金庫に入れているですよ。黒田さん、次にいらっしゃるときに、連絡いただければ、用意しておきますから」
「わかりました。ぜひ、次回に。でも、これ、どこにあったんですか」
久慈さんが、笑って答えてくれました。
「実は、仏壇の中に、奥の方に入れられていたんですね。亡くなった母が大切にしていたのでしょう」
「そうですか」
僕は、すっかり興奮しながら、久慈家をあとにしました。雅子さんの運転で阪急電車の駅まで送っていただいたとき、すでに頭の中には、「次は、いつ訪問できるかなあ」でいっぱいでした。(つづく)

