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ボストン交響楽団の思い出「最終回」

2011年01月27日

宝のような貴重な体験を心に収め、帰国の途につきました。

ボストン→サンフランシスコ・・・

サンフランシスコ→ホノルル・・・

ホノルル→東京・・・

幼い2人の娘を連れた長旅なので、帰途は余裕のあるスケジュールで、遊びながら帰りました。

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サンフランシスコの街角で・・・


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ワイキキの海岸で・・・


長い飛行時間・・・
疲れているのに、機内では一睡も出来ず酒ばかり飲み、
ボストン響のみんなの事が頭からはなれませんでした。
 

シンフォニー・ホールでみんなが奏でる音楽には、「香り」がありました。

ブラームスの音楽には、ブラームスの香りがあり、
モーツアルトにも、ドビュッシーにも・・・

素敵な香りが漂うコンサート・ホール・・・

ボストンの聴衆は、なんと幸せなんだろう・・・


しかし、感傷や、思い出に浸っている場合ではありません。

待ち受けているのは、「小沢征爾・音楽監督」の日本フィル・・・

首席チェリスト歴、たった8ヶ月の33才の若輩者が、
「一国一城の主」が顔を連ねる場所で、これから大きな責任を背負った仕事を・・・

「オマエ、ボストンで何やって来たんだ!!!」と、先輩たちから怒鳴られそう・・・


ボストン響、タングルウッドで学んだたくさんの事・・・
頭では理解していても、何一つ身についたわけではありません。

よし!日本に帰ったら、この経験を土台にして、コツコツ精進を重ね、
一歩一歩進んで行こう・・・

努力を続けていれば、きっと、いつかは報われる日が来るだろう・・・


チェロの皆さん、ありがとう。

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左列、手前から4番目が僕。右は師であり、親友のスティーブ・ゲーバーさん。

指揮者は、クラウディオ・アバド。ボストン・シンフォニー・ホール、1970年。


「ボストン響、すべてのの皆さん!本当に、ホントにありがとう。
皆さんの、お心のこもったご親切は、生涯忘れません。
もっと、もっと、みんなと一緒に弾きたかった・・・20年も、30年も・・・」

「さようなら・・・」

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おわり。


次回からは、「トルコ・一人旅」を、お伝えします。

ボストン交響楽団の思い出「その45」

2011年01月22日

「ツチダ!お前行って来い!!!」

小沢征爾さんの、「ツルの一声」が僕の人生を変えた・・・
と言っても、過言ではないと思っています。

日本フイルからボストン響へ!!!
ボストン響での体験は、言葉では、とてもいい表せない貴重な体験でした。

世界の中で、1~2を競うレベルが高いオーケストラでの演奏・・・

心の中に収まりきれない、すばらしいたくさんの思い出・・・

長い人生の中で、最も苦労した1年で、最もすばらしい1年でもありました。


タングルウッドを去る前日、
ホワイト・コテージにボストン響のメンバーが、次々にサヨナラを言いに来てくれました。


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写真:第1ヴァイオリン奏者の、シェルダン・ローテンバーグさん。

娘たちを、孫のようにかわいがってくれました。

「アンクル・シェルダン」と呼び、本当のおじいちゃんのように慕っていた幼い娘たち・・・

タングルウッドの農場で。

シェルダン、ありがとう。何から何まで・・・

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写真:スティーブ・ゲーバーさん。
チェロの師であり、親友でもありました。


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写真:チェロのルイ・レギュアさんと、その家族。

サーモン・フライが好きな彼は、ニューヨークでのコンサートのあと、
カーネギー・ホールの向かいにあるレストランで、いつもサーモン・フライを注文し、
「ヒデ、うまいよ、食べてみないかい?・・」と、
ナイフで1部を切り、僕のお皿にのせてくれました。

タングルウッドでは、
ある日曜日の夜、彼は自分の別荘に僕達家族を招待してくれ、ご馳走してくれました。

そして、翌週の日曜日の昼下がり、彼は家族を連れてフラリとホワイト・コテージに現れ、

「ヒデのコテージを見にきたよ。」

「やぁ、ルイ、、よく来てくれたなぁ。昼めし食ったかい?」

「まだだよ。」

「じゃ、オレ、スパゲッテイ作るよ。」

テラスでの遅い時間のランチは、オリーブ・オイルと、あり合わせの具を使った、
醤油味の和風パスタでしたが、ルイの家族は大喜びでした。

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演奏中のルイ・レギュアさん。手前から3番目。


ボストン滞在中、車を貸してくれただけでなく、修理もしてくれ、
何から何までお世話になった、第2ヴァイオリン奏者のローン・ヌッツェンさん、

弓の毛をフレンド・シップで張り替えてくれた、
ファゴット奏者の、マッソウ・ルジェーロさん、

・・・・・・みんな、みんな、すばらしい人達でした。

ありがとう。ありがとう。

後ろ髪を引かれる思いで、僕達家族4人は、翌日タングルウッドからボストンへ向かいました。

ボストン最後の一夜・・・

夕食はレストランで、家族水入らずでしたが、
ボストン響の仲間たちと、お別れしなければならない淋しさは、
どうする事も出来ませんでした。

翌朝、ボストン・ローガン空港内にあるレンタル・カーの会社に「ドッジ」を返却し、
僕達家族は、サンフランシスコ便の機中の人となりました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その44」

2011年01月18日

学生として参加した「タングルウッド音楽祭」の訓練は、とことんきびしいものでした。
それに耐えて頑張れたのは、生活環境と、家族のきずなでした。

室内楽のレッスン、現代音楽のリハーサル・パフォーマンス、
学生オーケストラのリハーサル、コンサート・・・

ハードなスケジュールに疲れても、
湖の畔のドリーム・ハウスに家族が待っていてくれると思うと、疲れた気分はやわらぎました。

夢のようなホワイト・コテージに帰ると、まずテラスでビールを一杯!

夕食前の楽しみは釣りです。

住まいの目の前が釣り場・・・

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なんという楽園・パラダイスなのでしょう・・・

釣り道具は近くの街で買い、餌はコテージの近くを掘るとミミズがいました。

獲物に大物はなく、酒の肴になるような魚は釣れませんでしたが、
我が家の庭先で、のんびり釣り糸を・・・

頭痛に悩まされるほどの、音楽祭会場でのハードな勉強・・・
このストレスを解消するには、テラスで飲むビールと、釣りが最適でした。

いい調子で釣りを楽しみ、通りがかりの人が、 
「何か釣れたかい?」と、声をかけてくれたり、幸せの絶頂でした。

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ところがある日、ボストン響の友達が、
「ヒデ、釣りのライセンスは持っているのかい?」
と、言われ、愕然としました。

監視員が時々見回りに来て、ライセンスを持っていない事がわかると、
釣り道具は没収され、罰金を支払わなくてはならないそうです。

なるほど・・・
きびしいルールのようですが、こうして自然環境を守って行くのでしょう。

もちろん、釣りはその日限りでやめました。

でも、疑問なのは、街で釣り道具を買った時、
釣具店のオッサンは、どうして僕にその事を言わなかったんだろう?

法令に違反する事なのに、何も言わずに販売してしまう・・・

ライセンスの取得方法も、教えてくれればよいのに・・・

スッキリしない気分でした。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その43」

2011年01月15日

「タングルウッド音楽祭」・・・

音楽を学ぶ世界各国の若者たちを魅了し、
8週間にわたる国際的なサマー・スクール・・・大規模な教育音楽祭です。

ここでは、オーケストラ奏者、室内楽奏者、歌手、指揮者など、
音楽を職業とする人々を訓練します。

巨匠、レナード・バーンスタインや、小沢征爾もこの音楽祭から巣立って行ったのです。


ここでは、僕はボストン響から離れ、世界各国から集まる学生の1人として参加しました。

学生は、全員学生寮で生活するので、
美しい湖の畔のコテージで、
家族と一緒に生活するような贅沢な学生は、僕のほかには1人もいませんでした。

週末にミュージック・センターの事務所の前に、翌週のスケジュールが発表され、
オーケストラの練習、室内楽のレッスン、現代音楽のパフォーマンス・・・など、
全学生に課せられます。
全学生は、事前にオーディションを受けなければならず、
その結果、能力に応じた科目が与えられるのです。

事務所の前の掲示板に張られた、100数10名の中から、
自分の名前を見つけるのが大変で、1度、自分の名前を見落としたことがあり、
室内楽のレッスンをすっぽかし、叱られてしまいました。

また、同じ日の同じ時刻に、2つの室内楽グループの両方に僕の名前があり、
どちらのグループを受講すべきかを事務局に問い合わせ、
指示通りにしたのに、それが別なグループに伝わっておらず、ここでも叱られました。

朝から夕方まで、頭痛がするぐらい、かなりハードな勉強でしたが、
練習やレッスンから解放され、家族が待つコテージに帰れる時間になると、
もう気分はルンルンでした。

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きれいな空気、おいしい空気を胸一杯吸ってテラスで飲むビール・・・

湖を目の前に、テーブルを囲んで夕食、家族の団欒・・・

これだけでも幸せ一杯なのに、
夕食前に、もう1つ楽しい事がありました。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その42」

2011年01月11日

ボストンからタングルウッドへの引越しは、大した手間もかからず楽なものでした。

ボストンのアパートは、家具付きの部屋ではありませんでしたが、
洗濯機は、アパートの地下室に住民が共同で使えるものが数台あったし、
ベッド・毛布・ソファ・椅子・テーブル・食器類などは、
ボストン響のメンバーが、彼等の持ち物を運び込でくれていて、
アパートを出る時も、彼等が運び出してくれるというので、
すべて、そのままにしておいてよかったからです。

そして、タングルウッドの住まい・・・

ボストン響が紹介してくれた、湖の畔にあるホワイト・コテージは、
ダイニング・キッチンと寝室のほか、湖の側には素敵なテラスがある家具付きのコテージで、
生活に必要なものは、すべて整っていました。

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写真:ホワイト・コテージから見た周辺の風景。


湖と緑に囲まれたホワイト・コテージ・・・
美しい風景・・・
毎日おいしい、きれいな空気を胸一杯吸いながらテラスで飲むビール・・・
家族揃っての食事・・・

人生、2度と出来ない夢のような生活でした。

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そんなある日、それまで働いてくれていた、年老いた愛車オペルが、再起不能に・・・

ホワイト・コテージから、音楽祭会場まで、2日間ヒッチハイクで通いました。

見かねたボストン響の事務局が、レンタル・カー利用を薦めてくれ、
手配してくれた車は、ガソリン消費量がとてつもなく多い、
まるでガソリンをまき散らして走るような「ドッジ」でした。

レンタル料や、ガソリン代は、かかりましたが、
それまでに、レコーディングのギャラや、ポップス・コンサートのテレビ放映料で、
たくさん稼いでいたので、大した負担にはなりませんでした。

ポップス・コンサート8週間・・・
50回のコンサートは、すべてテレビ中継されたのです。
毎晩、茶の間でも楽しめるコンサート・・・
ボストン・ポップスが如何に市民に愛されていたかがわかります。

日本のオーケストラでは、レコーディングでも、テレビ放映でも、
そのギャラは楽団の収入になり、楽団員・事務職員の給料にあてられますが、
ボストン響では、給料とは別にエキストラ・マネーとして、楽団員個人個人に支払われます。

その額は、ハンパなものではなく、思わぬ稼ぎに・・・
サンタクロース、真夏の来訪に小躍りしました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その41」

2011年01月08日

ポップス・シーズンが終わると、
ボストン響は、クラシック音楽の祭典、
「タングルウッド音楽祭」に出演するため、バークシャー地方へ移動します。

マサチューセッツ州の西端、ニューヨーク州との境に位置するバークシャー地方。
ボストン、ニューヨークから、それぞれ約230km、
車で3~4時間ぐらいだったと記憶しています。

この音楽祭は、
1924年から25年間、ボストン響の音楽監督をつとめた、セルゲイ・クーセヴィッキーが、
美しいバークシャー・ヒルズをはじめて見たその瞬間から、
音楽祭の創設を心に描き始めました。

クーセヴィッキーが、ボストン響をバークシャーで、はじめて指揮したのは、1936年。
この時はまだコンサート・ホールがなく、テントを張るだけの会場でした。

ある時はひどいドシャ降りで、コンサートが中止になったりもしましたが、
ふた夏コンサートを行った翌年の1938年、
タングルウッドの地所は、ボストン響に寄贈され、
6千席の野外音楽堂が建てられました。
クーセヴィッキーの夢は、形あるものになり出したのです。

(上記の1部は、ハリー・E・ディクソン著「ドルチェで行きましょう」より引用しました。)

タングルウッド・・・ボストン響の野外音楽堂・・・

屋根付きですが、客席の両サイドの壁と、後方の壁がなく、
床が土のままになっていて、椅子はベンチ・・・

座席数6千席・・・

このような構造のホールで、マイクは一切使わずナマの音です。

6千席もあり、コンサート会場には大きすぎる・・・
周囲に壁がないから、そこから音が抜けてしまう・・・
床が土なので、おそらく吸音される・・・

クラシック・コンサートには不向きと思われる構造のホールなのに、
とても音響がよいのは不思議でした。

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写真:6千席の野外音楽堂の前を、家族で散歩。タングルウッド・1970年。


ボストン響、タングルウッドでは、週3回のコンサート・・・

8週間続くので24回・・・

チケットは、毎回ソールド・アウト・・・

6、000席×24=144、000人・・・

会場に入れない人は、場外の芝生の上で寝転んで楽しんでいます。

これも、有料です。

すごいですねぇ~、超人気のボストン響・・・

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その40」

2011年01月04日

新年、明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い致します。


さて、久しぶりに「ボストン響の思い出」、復活です。

オーケストラの指揮者が使う指揮棒は、どの指揮者も細い指揮棒を使っていますが、
アーサー・フィードラーの指揮棒は、太めのがっしりした指揮棒でした。 

ボストン・ポップス・コンサートのお客さんは、開演前から食べたり、飲んだり・・・
おしゃべりはするし、定期コンサートとは、まるで雰囲気が違います。

「バシッ!」

フィードラーが、太い指揮棒でスコアを激しく叩く音に、
お客さんがびっくりして、一瞬静かになった隙に、演奏を始めるのです。


さて、ポップス・シーズンが5月に入り、シンフォニー・ホール最後のステージ・・・

いつも温かい笑顔を向けてくれた親切なメンバーと、一緒に演奏出来るのは今夜限り・・・

大きな不安を抱えてのボストン入り・・・

不安だらけだった、ボストン響での演奏・・・

こんな事もありました。

はじめてボストン入りした日、
出迎えてくれた10数人の楽団員は、2夜続けて空港に出向いてくれたのです。

日本フィルの事務局員が、
僕のボストン到着日を間違えて、ボストン響に伝えてしまったためです。

いろいろな思いが次々心に浮かび、
指揮台のフィードラーが、濃霧の中になり、
楽譜が霞んで、不覚にも涙がボロボロ流れてしまいました。

終演後、ボストン響は、シンフォニー・ホール2階ロビーで、
僕のために送別パーティを開いて下さいました。

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左は、パーソナル・マネージャー:ビル・モイヤー。

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左後ろ向き、ビル・モイヤー、右はチェロのボブ・リプレイ。中央は女房です。

ボブは、数年後に引退し、札幌を訪れました。
我が家では、すき焼きをつつき、楽しい一夜を過ごしました。

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左から僕、第2ヴァイオリン奏者・水野郁子(ボストン響、唯一の日本人)
女房、第1ヴァイオリン奏者・シェルダン・ローテンバーグ。

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アーサー・フィードラー氏から、送別のプレゼント・・・
オメガの金の腕時計を授与されました。

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時計の裏には、僕の名前と、
「ボストン響すべてのメンバー、関係者より」と彫られています。

つづく。

プロフィール

プロフィール

土田英順
つちだ・えいじゅん。日本フィル、新日本フィル、札幌交響楽団の首席チェロ奏者を歴任し、ボストン響およびボストン・ポップス響でも演奏。現在はソリストとして札幌を拠点に活躍するかたわら、2007年には役者デビュー。国内のみならず「春の夜想曲~菖蒲池の団欒~」では海外公演も果たす。73歳にして初めてパソコンを購入し、ブログの新世界で弓を引く。

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