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ボストン交響楽団の思い出「その32」

2010年11月28日

往年の映画ファンなら、ご存知の映画、「オーケストラの少女」。

指揮者、レオポルド・ストコフスキーの名は、
この映画に出演したこと等で、音楽の世界を問わず、広く知れ渡っているように思います。
 
この巨匠は、1912年から1938年までの26年間、
フィラデルフィア響の指揮者をつとめ、
彼の力で、このオーケストラを、世界トップ・レベルのオーケストラの一つに築きあげました。

その後、彼はニューヨークで、1962年にアメリカン交響楽団を設立し、
クラシック音楽の普及に努めました。

彼が、ボストン響に初めて招かれたのは、1964年、83才の時でした。

初めてのリハーサルの時、
ボストン響のメンバーは、全員が起立して、拍手で彼を迎えたそうです。

僕は、この巨匠の指揮で演奏する機会がありました。

オーケストラは日本フィル。

ストコフスキーは、指揮棒を持たずに、手だけで的確に指揮をしました。

変わっていたのは、オーケストラの配置です。


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写真:レオポルド・ストコフスキー指揮の日本フィル。

横一列のチェロ・セクション。右から3番目が僕。

東京文化会館、1965年頃。


普段と変わらないのは、第1ヴァイオリンと、第2ヴァイオリンだけ。

チェロとコントラバスは、ブラス・セクションの場所へ。

この楽器配置は楽団員にとって、音の聴こえ方がいつもと全く違うので、
演奏し辛く困りましたが、なにぶん相手は世紀の巨匠、
ブツブツ言いながら、彼の提案に従いました。  

ストコフスキーのリハーサルは、
楽団員に対して、ほとんど注文をつけず、黙々と指揮をするだけでした。

ミュンシュもそうでしたが、僕は、こういうリハーサルの方が好きです。

何故なら、オーケストラの演奏は、楽団員が、ただ指揮者に従うのではなく、
指揮者が何をやろうとしているかを、1人ひとりが理解し、
全員が自主的に、積極的に演奏する方が、よい演奏につながると思うからです。

ご丁寧過ぎる説明や、コマゴマと指示をなさる指揮者も、いらっしゃいますが、
こういうリハーサルは退屈で、アクビを我慢するのに苦労してしまいます。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その31」

2010年11月24日

セルゲイ・クーセヴィッキーが引退後、
1949年に、ボストン響、音楽監督に就任した、シャルル・ミュンシュ。

僕は、彼の指揮でベートーベンの「第9」、
べルリオーズの「幻想交響曲」などを演奏する機会に恵まれました。
オーケストラは日本フィル。

巨匠シャルル・ミュンシュ・・・

リハーサルが好きではない・・・
本番は、リハーサル通りには事が運ばない・・・
指揮ぶりは、彼の精神状態によって左右される・・・


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写真:ミュンシュ指揮・日本フイルのゲネプロ。東京文化会館。1963年頃。


ミュンシュ・日本フィルの「第9」。
第3楽章までは、調子よく進んでいました。

シルラーの詩、「歓喜の歌」で有名な第4楽章の冒頭は、激しい律動的な序奏で始まります。

ここでミュンシュは、突然、リハーサルの時とは全く違ったタクトを振り下ろしたため、
演奏は、次の休止符があるまでの数小節間、メチャクチャになってしまいました。

ミュンシュは、顔色一つ変えず、演奏は先へ進みましたが、
47年も前のことなのに、当時の音楽家仲間の間では、「第9」というと、
今でもこの「事件」は語り草になっています。

演奏が混乱した原因は指揮者にあるのに、評論家のペンの矛先はオーケストラに向かいます。

新聞紙上などに、もっともらしくコンサート批評を書く音楽評論家とは一体何なんだろう?

客席で、指揮者の背中を眺めながら音楽を聴いて、何がわかるんだろう?

リハーサル初日に、最初の音が鳴ってから本番の日まで、
指揮者と楽団員の間で、どのようなプロセスで、
どのようなコミニケーションがあり、
本番に向けて、どう仕上げていくのかを知らずに、よく書けるものだ。

新聞社は評論家の原稿を、おそらくそのまま掲載し、
読者はそれを読み、なるほど・・・と思っている。

辛辣な論評は、読む人にとっては面白いだろう。
一方、応援団の一員のような、褒めちぎりの論評・・・そんな事しか書けないのも情けない。

ここで、ボストン響の友人、ハリー・E・ディクソンの登場です。

「音楽評論家など、不必要なやからだ。彼等は何も有益な事はやらないし、
不運な事に音楽史上でも何の効果もはたしていない。」

「彼等の多くは、音楽について何も知らないし、知っている人でも、何の感動も持たない。」

「彼等は、批評を書くためにコンサートへ行き、音楽を楽しむために行くのではないのだ。」

(ディクソン著「ドルチェで行きましょう」より。)

毎週、ボストン響のコンサート評を「ボストン・グローブ」紙に寄稿していた、
評論家、マイケル・スタインバーグ。

ボストンの音楽ファンは、スタインバーグが、ボストン響の公演について、
如何に辛辣な事を書くかを見るために、「グローブ」紙を買うようになりました。、

しかし、不埒で辛辣な事を書かれ、ずっと我慢をしていた楽団員は、
ついに堪忍袋の緒が切れ、スタインバーグをボイコットしてしまいました。

「ヤツの前で、オレ達は演奏しない。!!!」

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その30」

2010年11月21日

ボストン響、「育ての親」、セルゲイ・クーセヴィッキー。

この巨匠は、1924年音楽監督に就任して以来、
1949年までの25年間、一王国を築きました。

ギャラは高額で、他のどの指揮者をも、遥かにしのぐ生活をしていたそうです。

飛行機が、まだ普及していなかった頃、
毎年行われるボストンから、およそ5、000kmも離れた西部への演奏旅行は、
もっぱら汽車を利用していました。

楽団員は、寝台車を利用しましたが、
クーセヴィッキー夫妻と、随員の付き人、コック、秘書、お手伝いさんからなる一団は、
いつも、一車両全部を借り切っていたそうです。

(ハリー・E・ディクソン著、「ドルチェで行きましょう」より。)

僕は、クーセヴィッキーの指揮で演奏したことはありませんが、
彼の引退後、1949年にボストン響の音楽監督に就任し、1962年までつとめた、
シャルル・ミュンシュの指揮で演奏したことがあります。

オーケストラは、日本フィルハーモニー交響楽団。
1963年だったと思います。


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写真:シャルル・ミュンシュ指揮、日本フィルのリハーサル。

フジ・テレビ内の、日本フィル練習場で。右端にいるのが僕。


ここでまた、ディクソンの著書からちょっと・・・

「ボストンで、一番人気があったのは、ミュンシュで、
ハンサムな容姿と、魅力的な微笑みは女性の憧れの的となり・・・」

その通り。

リハーサルでも、本番でも、楽団員に向ける慈愛に満ちた微笑みは、神がかっていて、
女性のみならず、楽団員、誰もが巨匠ミュンシュに引き込まれてしまいました。

「ミュンシュは、他の指揮者と違いリハーサルが好きではなかった・・・」

「リハーサルが始まり、10分もすると、
”今日は天気がよいから、練習はやめて、みんな家に帰ろう”・・・」

ハードなスケジュールで、疲れきっていた楽団員は大喜びしたそうです。

「ミュンシュのコンサートでは、楽団員は、誰も安心していられない。
何故なら、決してリハーサル通りに事が運ばないから・・・」

その通り。

ミュンシュが、日本フィルを指揮をした2回のコンサートのうち、
1回はベートーベンの第9シンフォニーでした。

年末恒例の「第9」。

巨匠ミュンシュが指揮する、日本フィルの「第9」。

本番で、信じられないような、とんでもない事が起きてしまいました。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その29」

2010年11月18日

ボストン響のメンバーの中には、ユニークな人たちがたくさんいます。

ウィーン生まれのファゴット奏者、パネンカは天文学に興味を持ち、
自宅の屋根に望遠鏡を組み立て、コンサートが休みの月夜には、
真夜中まで屋根に上がり、星の研究に余念がないそうです。

首席ファゴット奏者の、シャーマン・ウォルトは、第2次世界大戦の時、
勇敢なパイロットでした。

(彼は、僕が帰国した数年後、交通事故で亡くなりました。)

ニュー・イングランド水族館や、森の中の一軒家でご紹介しました、
コントラバスのジョー・ハーン。

第2ヴァイオリンの首席奏者、ビル・ウォーターハウス。

チェロの1番うしろの席で弾いていて、後にフィラデルフィア響の首席奏者になった、
ビル・ストッキング。

この3人は、パイロットの免許を持っていて、全員が自分の飛行機で空を飛びます。


ヴィオラの首席奏者、バートン・ファインは、学位をいくつか持っていて、
かつて、宇宙計画推進の、NASAにやとわれていました。

彼は、ヴァイオリン奏者として入団し、第2ヴァイオリンの末席で弾いていましたが、
首席ヴィオラが空席になった時、オーディションを受けて合格し、
そのままヴィオラ奏者に転向してしまいました。

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写真:前列右が、ヴィオラの首席奏者、バートン・ファイン。


チェロの副首席奏者、マーティン・ホーマンは、9~10種類の楽器をこなす天才です。

ピアノ、バンジョー、サキソフォン・・・
武満徹の、「ノベンバー・ステップス」を演奏した時、
彼は、その曲のソロ楽器の一つ、尺八に興味を持ち、
尺八の音域や奏法について質問を受けましたが、僕には説明出来ませんでした。

彼は、その他、時計の修理までやってしまいます。

また、絵の達人で、
シンフォニー・ホールにある、アート・ギャラリーの展示責任者を任されているのが、
チェロのカール・ザイス。

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写真:マーティン・ホーマンと、そのうしろカール・ザイス。


チェロのミッシャ・ニーランドは、株式のエキスパート。

弦楽器の修理、弓の毛の張替えで腕をふるう、ファゴット奏者のマッソウ・ルジェーロ。

弦楽器の修理・調整がうまく、車の整備や暖房器具の修理までやってしまう、
第2ヴァイオリン奏者のロナルド・ヌッツェン。

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写真中央:ロナルド・ヌッツェン。


ボストン響は、趣味とサイド・ビジネスの面でも、多士済々のオーケストラでした。


今回のブログは、ボストン響の友人の1人、
第1ヴァイオリン奏者で、ボストン・ポップス・オ-ケストラの副指揮者でもある、
ハリー・エリス・ディクソン著、「ドルチェで行きましょう」からも、
引用させていただきました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その28」

2010年11月15日

前回の続きで、ボストン響、定期シーズン中の出来事です。

お伝えしましたように、開演30分前になっても、
コンサート・マスター、ヨゼフ・シルバースタインの姿が見えません。

彼は、開演時間を間違えて、その時まだ家にいたのです。

プログラムの1曲目は、ハイドンのシンフォニー。
第4楽章にコンサート・マスターの難しい大きなソロが・・・

彼が開演に間に合わなかったらどうする?
彼の到着を待って、開演を遅らせたら?

ダメです。

開演を遅らせれば、終演も遅れる・・・

楽団員全員に、オーバー・タイム料金を支払わなければなりません。

コンサートは、コンサート・マスターがいないまま、
マイケル・ティルソン・トーマスの指揮で定刻に始まりました。

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写真:ん???

チェレスタを弾く、マイケル・ティルソン・トーマス。
当時、彼はボストン響のアシスタント・コンダクターでしたが、
指揮をしない時は、チェレスタやチェンバロなど、鍵盤楽器を弾いていました。


ハイドンのシンフォニーは、1楽章、2楽章と進みましたが、
シルバースタインはまだ現れません。
演奏は、3楽章に入りました。

この楽章が終わっても、彼が来なかったら、どうするんだろう・・・

ハラハラ・ドキドキしていると、
3楽章が終わったところで、彼はステージに現れ、滑り込みセーフ!!!

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写真:ボストン響コンサート・マスター、ヨゼフ・シルバースタイン。

1969年、ボストン・シンフォニーホール。


前代未聞の大珍事!!!

コンサート・マスターが本番に遅刻し、シンフォニーの第4楽章から登場・・・
それを、テレビで生中継・・・
こんな事は、オーケストラの歴史が始まって以来の大珍事に違いありません。

当時、ヨーロッパでは、ベルリン・フィルのシュバルベ。
アメリカでは、ボストン響のシルバースタイン。

世界的に評価が高かった、シルバースタインですが、
ボストン響の音楽監督に新たに就任した、小沢征爾さんと音楽上うまくいかず、
かねがね指揮者に転向したいと思っていた彼は、
ボストン響を退団し、モルモン教徒が多い、ユタ州のオーケストラの指揮者になりました。

大コンサート・マスター転じて、新人指揮者に!
小太りで、ずんぐりした体形の新人指揮者シルバースタイン。

彼が、指揮者に転向したことを知った口の悪い楽団員は、
「オレはヤツに、全身が映るデッカイ鏡をプレゼントするぜ・・・」

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その27」

2010年11月12日

劇団「TPS」、サハリン公演のご報告は、前回で終了しました。

お話は、芝居から音楽へ・・・
サハリンからボストンへ・・・

今回から、再び「ボストン響の思い出」をお伝えします。

ボストン響が、僕を仲間に入れてくれた、1969年9月からの新シーズン。

前任者、エーリッヒ・ラインスドルフのあとを受け、
音楽監督に就任したのは、ウイリアム・スタインバーグでした。

彼は、ピッツバーグ響の音楽監督を兼務していて、大車輪の活躍でした。

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写真:ウイリアム・スタインバーグ。1969年、ボストン・シンフォニーホール。


定期シーズン中、とんでもないハプニングがありました。

開演30分前になっても、
コンサート・マスター、ヨゼフ・シルバースタインの姿がないのです。

ボストン響は、コンサート前のリハーサル(ゲネプロ・総練習)を行いません。
楽団員は、コンサートに支障が起きないように、
各自の判断で、早めにシンフォニー・ホールに集まって来ます。

開演の2時間ぐらい前に来る人、1時間ぐらい前に来る人・・・

コンサートは、金、土、火、木、に開催されますが、
開演時間は、金曜日の14:00以外は、20:30です。

その日は木曜日、コンサートはテレビの生中継があり、
番組の都合で、その日に限っていつもより1時間早い、19:30開演に変わっていたのです。

シルバースタインは、それを忘れていたようです。

事務局員が、彼の家に電話をすると、彼はまだ家にいました。

その夜のプログラムの1曲目は、ハイドンのシンフォニーで、
そのシンフォニーの第4楽章に、コンサート・マスターの難しい大きなソロがあるのです。

さぁ大変!!!

コンサート・マスターは、開演に間に合うのか・・・

ボストン響のヴァイオリン・セクションが、如何に名手ぞろいでも、
この難しいソロを、コンサート・マスターに代わって、
ブッツケ本番で弾ける人は誰もいません。

つづく。

特別プログラム・劇団「TPS」サハリン公演「最終回」

2010年11月09日

ロシア・ユジノサハリンスク市の、「チェーホフ劇場」。「秋のソナチネ」公演初日。

芝居の中で、斉藤歩さんの曲を6曲弾きました。
曲が終わるたびに拍手を頂戴し、びっくりしました。

この芝居、それまでに北海道内で13回公演し、一度も拍手をもらった事がなかったからです。

ところが、公演2日目になると、全く拍手がない・・・
同じ劇場で、同じ芝居をやっているのに何故だろう・・・
未だにわかりません。

いえいえ、別に文句を言っているわけではありません。

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ピアノ伴奏をしてくれた林千賀子さんは、「TPS」の役者ですが、
この人の「ど根性」には感服しました。

芝居では主役の1人で、膨大な量のセリフ・演技があり、
その上、冒頭からピアノ演奏がある・・・

大勢の人の前で演奏することの難しさ、大変さを僕はよく知っています。
彼女は、この芝居のために楽器を購入し、自宅で自ら特訓に励んだのです。

また、芝居の冒頭から幕が降りるまで、
舞台上で、手打ちソバを打ち続ける、ソバ屋の主(あるじ)の役、佐藤健一さん。

彼は、この芝居のためにソバ打ちを習得し、彼が作ったソバは、
本物のソバ職人が作ったような、見事なものでした。

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写真左:実際に舞台でソバを打つ佐藤健一さん。

撮影:高橋克己。

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写真左:佐藤健一さん。新千歳空港で。


キャスト・スタッフ全員の努力があって、
「TPS」サハリン公演は、成功裡のうちに幕をおろしました。

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写真:カーテン・コールで、観客に挨拶する、
左から2人目、北海道演劇財団・専務理事・プロデューサーの平田修二さんと、TPSの役者達。

撮影:高橋克己。


街中の電光掲示板、TVコマーシャル、新聞などの宣伝ほか、
すべてに力を注いでくださった、ユジノサハリンスクの関係者の皆様!
本当にありがとうござしました。


「モスクワなどから来ている劇団の公演を、たくさん観てきたサハリンの観客も、
”秋のソナチネ”を観て、心が奪われた。
洗練された演技、シーンにふさわしい音楽の演奏によって、
チェーホフの作品に基づいた多くの公演より、チェーホフの雰囲気に通じていたと言える。」

サハリン国際チェーホフ劇場・文芸部長・ヤーナ・チェーホワさんの感想です。

最後に、サハリン公演に同行し、通訳をつとめてくれただけでなく、
この芝居をロシア語に翻訳し、舞台後方にある字幕作成の立役者、
サハリン出身の北大大学院の若い女性、カーチャ・・・ファルトゥシナヤ・エカテリーナさん。

「英順さんは、台本にはないセリフを、アドリブで言うので、
字幕作成が出来ない・・・」
カーチャは、こぼしていましたが、
「でも、芝居はその方が面白い・・・」とも言ってくれました。

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写真:舞台後方にあるロシア語の字幕を見上げ、最終チェックをする、

右・カーチャ、中央・北海道演劇財団・制作の阿部雅子さん、左・舞台監督の尾崎要さん。

撮影:高橋克己。

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写真:カーチャ、夕食会で。


カーチャ、ありがとう。

ウォッカよりも、テキーラが好きなカーチャ・・・

また飲もうね!

いつか、どこかで・・・

おわり。


次回からは、「ボストン交響楽団の思い出」を再開します。

特別プログラム・劇団「TPS」サハリン公演「その6」

2010年11月06日

4泊5日の、劇団「TPS」サハリン公演旅行。

到着した日の夕食は、「ランチ・ボックス」と呼ばれる、
発泡スチロールの箱に入った弁当を用意してくれましたが、
ごはん、シャケのフライ、それに生野菜だけでした。

これじゃ、晩酌のつまみには、わびしいなぁ・・・

しょんぼりしていると、役者の木村洋次(ひろつぐ)さんが、
「コンビニ(あちらではキオスク)に行って、酒と、つまみを適当に見繕って買って来ます。
英順さん、部屋の冷蔵庫のビールで先にやっていてください。」

嬉しかったなぁ~。木村さんの一言が・・・

旅先での親切は、特別身にしみて嬉しいものです。

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写真上、左:舞台上の木村洋次(ひろつぐ)さん。

写真下、右から二人目:打ち上げパーティーでくつろぐ木村洋次さん。


旅の楽しみの一つは、その土地の料理に出会うこと。
ロシア料理と言えば、真っ先に思い浮かぶのは、ビーツのスープ、「ボルシチ」です。
ボルシチの鮮やかな赤い色は、ビーツの色。

ビーツ・・・
ビート(コンサイ)と同じ種類で、ビートは白色ですが、
ビーツは実が赤く、使いみちはボルシチ、サラダなどで、缶詰輸入もしているそうです。

冬の寒さが厳しいロシアでは、温かいスープが好まれるのでしょう。

打ち上げパーティーでご馳走になったボルシチは、料理コースの中で、圧巻でした。
黒パンをくり抜いて作った食器に、ボルシチを入れた料理です。
ご丁寧なことに、蓋も黒パンで作ってありました。

食器になった黒パンも食べてしまうと、
この一品だけで満腹になってしまい、他の料理が食べられません。


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黒パンをくり抜いた中に、ボルシチが・・・
表面は、薄い白パンで包んであり、
それを、はがし、ちぎってボルシチにつけて食べるのです。


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打ち上げパーティー、ホテルの一室で。

掲載した写真:撮影:高橋克己。


ロシア・ビールの味は、ヨーロッパの味。

コクがある、ドイツ・ビールのようにうまかったし、
コンビニでも気軽に買えるウォッカは、
アルコール度が強いのに、ストレートでスイスイ飲めちゃうし・・・

「ロシア美人と、ウォッカの飲みすぎに気をつけて・・・」

出発前の、斉藤歩さんの忠告が頭をよぎりました。

つづく。

特別プログラム・劇団「TPS」サハリン公演「その5」

2010年11月03日

・・・サハリン公演「その4」を投稿後、
読者から、次のようなご指摘をいただきました。

「・・・9回の公演で、1公演平均70人の観客、、、
札幌では、演劇に目を向けてくれる人が少なく、悲しい・・・とのことですが、
80人で満席になる小劇場で、その観客数なら、よいではないか・・・」

ごもっともですが、、、

しかし、190万人の大都市札幌。札幌・通勤圏、近郊の都市人口を加えると、
200万人を軽く突破します。

そうした都市環境の中で、9公演、観客約630人は、やはりさびしく、
1ヶ月ぐらいのロング・ランで、1公演平均70人ぐらいを目指したいです。

ご意見、ありがとうございました。


「秋のソナチネ」サハリン公演。

劇中にある、チェロの演奏のために、事前に音響テスト・・サウンド・チェックが必要でした。

本番前日のサウンド・チェックでは、
「チェーホフ劇場」の2人の若い職員が、
ガムテープで、マイクを譜面台に取り付ける作業をしてくれました。

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撮影:高橋克己。

「チェーホフ劇場」は、街の中心にある州立劇場で、
アーティスト70人を含め、200人の職員をかかえる一大芸術施設です。

演劇専門学校も別にあり、3年制で約50人の学生がいて、
卒業生の半分が「チェーホフ劇場」に就職するとのことです。

演劇が職業として成り立っているのでしょう。

一方、歴史が浅い北海道の演劇界。

「TPS」は創立10年。

日本を代表するオーケストラの一つに成長した札幌交響楽団は、来年、創立50周年です。

このオーケストラが、創立10年の頃は、楽団員は少なく、
演奏レベルも低く、生活に困窮した楽団員の中には、
リハーサルのあと、ナイト・クラブでアルバイトをし、
オーケストラ活動を続けていた人もいる・・・と聞いています。

「TPS」の役者さん!今は辛抱の時。

1日も早く、演劇でメシが食える「名実共にプロ劇団」となるよう、願ってやみません。

「TPS」は、プロの実力を備えた劇団なのですから・・・

つづく。


プロフィール

プロフィール

土田英順
つちだ・えいじゅん。日本フィル、新日本フィル、札幌交響楽団の首席チェロ奏者を歴任し、ボストン響およびボストン・ポップス響でも演奏。現在はソリストとして札幌を拠点に活躍するかたわら、2007年には役者デビュー。国内のみならず「春の夜想曲~菖蒲池の団欒~」では海外公演も果たす。73歳にして初めてパソコンを購入し、ブログの新世界で弓を引く。

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