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特別プログラム・劇団「TPS」サハリン公演「その4」

2010年10月31日

9月27日、28日の両日、ロシア・サハリン州、ユジノサハリンスク市の、
国際舞台芸術センター、「チェーホフ劇場」で行われた、劇団「TPS」公演の続きです。

上演したのは「秋のソナチネ」。
2日間・2公演。545人の観客が観てくれました。
人口18万人のユジノサハリンスク市なので、盛況だったと言ってよいのでしょう。

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写真:チェーホフ劇場。

この芝居が、2008年札幌で初演された時は、7日間・9公演で、
観客数は1公演平均にすると70人ぐらいだったと記憶しています。

190万人の人が住む札幌。
ユジノサハリンスクの10倍以上の人が住む札幌。

同じ劇団が、同じ芝居を上演してこの違い。
ユジノと比べ、札幌では、演劇に目を向けてくれる人の少なさに、悲しくなりました。

「TPS」の役者さん達は、恵まれない環境の中でも明るさを失わず、
「劇場に来てよかった」・・・
お客さんに、そう思っていただけるような舞台を創ろうと、稽古に励んでいます。
僕は、彼等のそのひたむきさに教えられることが多いのです。

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写真:稽古の合間。演出の宮田圭子さんと。チェーホフ劇場で。

どうか皆様、劇場に足を運び、
純粋で、ひたむきな「TPS」の役者さん達に、エールを送ってあげて下さい。
彼らは、きっとすばらしい舞台でそれに応えてくれるでしょう。

つづく。

PS。
「TPS」サハリン公演「その1」から掲載している写真は、
すべて、高橋克己さんの撮影によるものです。

特別プログラム・劇団「TPS」サハリン公演「その3」

2010年10月28日

劇団「TPS」、サハリン公演の続編です。

僕の役は、趣味でチェロを弾く、酒飲みの元ラーメン屋のオヤジ。
女房に先立たれ、放浪の旅に・・・
旅先で知りあった若い女性と再婚し、3年ぶりに店に帰って見ると・・・ 

息子がラーメン店を改築し、手打ちソバ屋に・・・

上演した、「秋のソナチネ」では、役者が実際に舞台上でソバを作り、
家族、出前で働く青年、お客さんで店に来た兄妹。
ソバ屋の店内を舞台に、繰り広げられる物語です。

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写真:稽古前の舞台。右が舞台上で、本物のソバを打つソバ屋の主(あるじ)、佐藤健一さん。

この芝居・この役のために、ヘアー・スタイルをこのように・・・

腕組みをして、偉そうに立っているのは僕。舞台後方に見えるのは、ロシア語の字幕。

劇中、チェロのナマ演奏がある「秋のソナチネ」。
僕は、斉藤歩さんの作品を6曲弾きましたが、それは、場面場面にふさわしい音楽でした。

特にラスト・シーンで弾く「秋のソナチネ第1番」

出前で働く青年、名は「一郎」。
大晦日の夜、1人暮らしの82才のお婆さんに、五目ソバを届けると、
お婆さんはコタツで、冷たくなっていました。

お婆さんの傍らには、封筒が置いてあり、
「一郎さん、ありがとう。」と、書かれていて、中には、五目ソバの代金が・・・

五目ソバを、店に持ち帰った一郎は、
伸びきってしまった、まずそうな五目ソバを「供養だから、」
と言い、泣きながら食べる・・・

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写真:舞台中央で、手を合わせているのが、「一郎」の、木村洋次さん。
舞台後方には、ロシア語の字幕が見える・・・


老人の孤独死、年老いた人を思うやさしい心を持った青年・・・

このラスト・シーンで演奏されるのが、「秋のソナチネ第1番」です。

観客の心にしみる音楽、観客の心をとらえる音楽。
僕は、これまでにコンサートで、何度も取り上げて来た名曲なのです。

つづく。

特別プログラム・劇団「TPS」サハリン公演「その2」

2010年10月26日

前回に続いて、劇団「TPS」サハリン公演のご報告です。
「ボストン交響楽団の思い出」は、
この特別プログラムが終わり次第、お伝えして参ります。


ユジノサハリンスク空港から、宿泊先のガガーリン・ホテルに向かう貸切バスの中。

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写真:宿泊したガガーリン・ホテル。


突然、バスの中で起きた、驚きの大歓声!

それは、サハリンの薄暗い街の中で、クッキリと浮かび上がる電光掲示板に、
「TPS」が、これからこの土地で上演する作品の一場面が、写し出されていたのです。

モスクワからも、一流の劇団が公演に訪れるユジノサハリンスク。

創立、たかだか10年。

札幌の、小さな無名の劇団の公演に、これほどまでに力を注いでいただき、
嬉しさよりも、何よりも、なんとしてもよい芝居をやらなければ・・・
公演に参加する者の1人として、身が引き締まる思いでした。

上演したのは、「秋のソナチネ」。
「TPS」チーフ・ディレクター、斉藤歩さんの作品で、2008年札幌で初演された作品です。

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写真:「秋のソナチネ」の、パンフレット。


僕の役は、趣味でチェロを弾く、酒飲みの元ラーメン屋のオヤジ。

女房に先立たれ、店をほっぽらかして、国内外へ放浪の旅に・・・
旅先で、娘ほどトシが違う若い女性と知り合い再婚し、
3年ぶりに店に帰って見ると・・・

つづく。


特別プログラム・劇団「TPS」サハリン公演「その1」

2010年10月25日

北海道演劇財団の付属劇団、
「TPS」は、2010年9月27日と28日、
サハリン州・ユジノサハリンスク市で公演を行いました。

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ユジノサハリンスク市内。


ロシアの作家、アントン・チェーホフの生誕150周年記念、
サハリン国際舞台芸術センターで行われた演劇祭「チェーホフの秋」に参加したのです。

新千歳空港→ユジノサハリンスク空港、飛行時間1時間20分。
サハリンの時差は、日本時間+2時間。

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出発前、プロデューサーの平田修二さんと乾杯。新千歳空港で。


新千歳空港を、17:00に飛び立ったサハリン航空152便は、
定員48人の小型機で満席でしたが、
到着後の入国審査は念入りで、長時間かかりました。

係官は、二人共女性でしたが、そのうちの1人は絶世の美人で、
彼女がパスポートなど、入国に必要なものを、時間をかけてチェックしている間、
ガラス越しに彼女を眺めていると、アタマがクラクラして来るほどでした。

ロシア美人・・・
出発の数日前、チーフ・ディレクターの斉藤歩さんから、
「ロシア美人と、ウォッカの飲みすぎに気をつけて・・・」と言われていたので、
なるほど・・・納得でした。

空港から宿舎のガガーリン・ホテルまでは、
演出家、舞台監督、役者ほか、総勢18名が貸切バスで向かいましたが、
薄暗く、寂しい感じのサハリンの街を、バスの車窓からボンヤリ眺めていると、
突然、バスの中で驚きとも、喜びともつかぬ、大歓声がわきあがりました。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その27」

2010年10月23日

野球は楽し。メジャーは楽し。

ボストン響の定期シーズンが終わり、4月からポップス・シーズンになると、
週6回のコンサートは、ほとんどブッツケ本番でしたが、
リハーサルが必要になると、コンサート当日の午前中に行いました。

リハーサルは13:00に終わり、
夜のコンサートの開演時間、20:30までフリーになります。

シンフォニー・ホールのロッカーにチェロを置き、フェンウェイ球場へ直行!

当時ドーム球場はなかったので、
悪天候で中止になる試合が多くなると、
一日に2試合・・ダブル・ヘッダーで全試合を消化していました。

ある日、ダブル・ヘッダーを観に行くと、2試合とも乱打戦となり、
次から次へと出てくるピッチャーは、ポカスカ打たれたり、フォアボールを連発。
ピッチャーがいなくなってしまい、なんと三塁手がマウンドへ!

即席のピッチャーが打たれると、今度はキャッチャーがマスクをはずしてマウンドへ!
もうメチャクチャです。
これがメジャーの試合かと・・・
スタンドは「ウ~ウ~」「ウ~ウ~」・・・ものすごいブーイングで異様な雰囲気でした。

「これじゃ、まるでラグビー・スコアだよ。」
両手をひろげて、呆れ顔で話かけてくる人もいました。

知らない間柄でも、気軽に話かけてくる・・・
知らない間柄でも、眼が合うと笑顔を向けてくる・・・

日本人には、ないことですが、
アメリカ人のこういうところは、友好的で気持ちよく好きです。

つづく。

さて、次回からの数回は、「特別プログラム」として、
北海道演劇財団の付属劇団、「TPS」が、9月27日、28日に行った、
サハリン公演について、ご報告をさせていただきたいと思います。

僕も、「チェロを弾く役者」として、参加させていただきました。

その後は、再び「ボストン交響楽団の思い出」を、
お伝えして参りますので、よろしくお願い致します。

ボストン交響楽団の思い出「その26」

2010年10月22日

住まいの近くには、
メジャー・リーグ、ボストン・レッドソックスの本拠地、フェンウェイ球場がありましたが、
この球場は1912年に誕生したメジャー・リーグで最も古く、最も小さな球場です。

メジャーのスピードとパワー・・・
迫力あるプレイに圧倒され、何もかも忘れて野球にのめり込み、
気分転換に、これ以上のものはなく、球場にはよく足を運びました。

この球場のレフト・スタンドは、1920年代と30年代の大火によって崩落し、
高さが11mもある、コンクリートの壁に変わり、左翼外野にスタンドはありません。
壁は緑色に塗られ、「グリーン・モンスター」と呼ばれるようになりました。

これも、この球場の名物なのでしょう。

当時、レッドソックスには、ヤストレムスキーという強打の4番バッターがいて、
彼は、センターのスコア・ボードの上を越えて、場外に消えて行く、
特大のホームランを打ちました。

「スコア・ボードを越えるホームランを打ったのは、ベーブルースしかいないんだ!!
お前は、今日、見に来てラッキーだ!ラッキーだ!」

隣の席で観戦していた赤ら顔のオッサンは、
大興奮で、「ラッキー」を連発していました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その25」

2010年10月21日

ボストン響の、超ハードなスケジュールを、こなして行くためには、
休日の過ごし方が、とても大切でした。

家でビールを飲みながら、一日中テレビを見て、ゴロゴロして過ごすのは最悪です。

オーケストラの演奏は、肉体労働である上、緊張感、集中力がハンパじゃありません。
肉体疲労だけでなく、精神的な疲労も大きいのです。

暖かい気候になってからは、
家族と一緒に、家の近くの、「ジャマイカ・ポンド」に、弁当持ちで行き、
きれいな空気を胸いっぱい吸い、大きな池の畔でのんびり過ごしたり、
市民の憩いの場所、ダウンタウンに広がる緑のオアシス、
「ボストン・コモン」で、幼い娘たちの相手をして過ごすのも、疲労回復には最適でした。


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我が家の近く、ジャマイカ・ポンドの畔で、無邪気に遊ぶ幼い娘たち。


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ダウンタウンにある、緑のオアシス、ボストン・コモン。
家族と、のんびり過ごすのも、疲労回復の良薬でした。


住んでいたのは、ボストン郊外のブルックライン市で、
我が家に比較的近いビールズ通りには、
第35代大統領、ジョン・F・ケネディの生家がありました。

「国家が諸君のために何をしてくれるのかを問うのではなく、
諸君が国家に対して何をなし得るかを問いたまえ。」

大統領就任時、42才。
アメリカ史上、最年少の大統領。この就任演説は、あまりにも有名です。

1965年、ケネディ元大統領の生家は、国に史跡として指定され、一般公開されています。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その24」

2010年10月19日

小沢征爾さんと,ボストン響・・・続きです。

「おい!ボストン響の次の音楽監督の候補になってるぞ!!」

「オレがそんなの、なれるわけねぇよ。」

彼は、僕の話を本気にしませんでした。

しかし、その3年後の1973年、彼は「ボストン響・音楽監督」に就任し、
2002年まで、29年の長きにわたって、この任務をつとめました。

この「長期政権」は、「ボストン響・育ての親」と言われている、
巨匠、セルゲイ・クーセヴィッキーが、1924年音楽監督に就任し、
25年にわたって、一王国を築いたのを上回るもので、
これをみても、小沢さんが、如何に偉大であるかが分かります。

1958年の1月下旬、僕は東京駅に彼を見送りに行きました。

新幹線がなかった頃なので、彼は夜行列車でゴトゴト神戸に向かい、
神戸港から、貨物船で世界に向かって武者修行の旅に出たのです。

「埠頭で見送りに立っていたのは、たった3人。明石にいる友人とその母上。
それに兄貴だけ。貨物船なので、よその見送り人もいない。まことに、静かな船立ちだった。」

彼は、著書、「ボクの音楽武者修行」で、このように書いています。

当時、今日の「世界のマエストロ・小沢征爾」を、誰が想像したでしょうか・・・

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その23」

2010年10月18日

1969年、
ボストン響に、客演指揮者として颯爽と登場し、
2週間で、8回のコンサートを指揮した小沢征爾さん。

コンサートで最後の音が鳴り終わると、
客席からは「ブラボー」の声、スタンディング・オーベーション、
アンコールで何度も何度も、ステージに呼び戻され、
笑顔で、丁寧にこたえる小沢さん。

シンフォニー・ホールは毎晩、興奮のるつぼ。

学生の頃、金がないのに、二人で夜の渋谷の街をホッツキ歩いた事・・・

彼の家では、やさしい微笑みを浮かべたお父さんが、酒を振舞ってくれ、
「土田クン、今夜は泊まっていけよ。」
翌日になると、「土田クン、もう一泊していけよ。」
・・・など、なつかしい思い出が脳裏をかすめ、
世界の桧舞台・・・目前で見る友の成功が嬉しく、思わず涙ぐんだ日もありました。

こうした中で、小沢夫妻は、我が家に遊びに来てくれました。

来客の中には、武満徹さんの「ノベンバー・ステップス」のソロでボストンにきていた、
琵琶奏者の鶴田錦史さん、尺八奏者の横山勝也さん、野依良治さんらがおられましたが、
野依さんが、2001年にノーベル化学賞を受賞された時には驚きました。


当時ボストン響は、次期音楽監督を物色していました。

楽団員の話では、有力候補は、将来世界の指揮界を背負って立つ三羽烏と言われていた、
ズビン・メータ、クラウディオ・アバド、セイジ・オザワの3人でした。

翌年、僕が帰国し、日本フィルの首席チェリストに復帰した数週間後、
川崎市で、小沢征爾指揮、日本フィルのコンサートが開催され、
終演後、友人たちと、川崎の彼の家に行きました。


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写真:後列、左から2人目、小沢征爾さんの弟・幹雄さん(あだ名はポン)

5人目、小沢征爾さん、8人目、指揮者の手塚幸紀さん、

前列、左から4人目、小沢さんのお母さん・さくらさん、

5人目、コンサート・マスターのルイ・グレラーさん、8人目、僕。

「おい、ボストン響の次の音楽監督の候補になってるぞ。」

「オレが、そんなの、なれるわけねぇよ。」

彼は、僕の話を本気にしませんでした。 

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その22」

2010年10月15日

室内楽コンサートの続きです。

多忙なスケジュールの合間をぬうようにして、本当にたくさん練習しました。
オーケストラの演奏旅行の際は、各自譜面台を持参し、
ニューヨークのホテルの一室・・・
ベッドを壁に押し付けるように立てかけて、スペースを作り、
狭い場所で練習したこともありました。

チェロのカールは、巨匠「アントニオ・ストラディヴァリウス」の息子、
「オモボノ」が作った名器を使っていて、
堅実な技術、美しい音色、円熟味のある音楽・・・
一緒に弾いていて、圧倒されっぱなしでした。

僕は当時、ミラノの製作者、「タラスコーニ」が作ったチェロを使っていましたが、
カールには技術でも、楽器でも太刀打ち出来ず、情けない思いをしました。

ある日、練習のあと、家に帰ってチェロのケースを開けると・・・

中にはカールのチェロ、「オモボノ」が入っていました。

カールのケースと、僕のケースは、色から何から何まで、全く同じなので、
そそっかしい二人は、お互いに相手のチェロを持ち帰ってしまったのです。

その夜、コンサートがあり、
シンフォニー・ホールでチェロを取り替えたのは、言うまでもありません。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その21」

2010年10月14日

ボストンに滞在中、ハーバード大学・グリーン・ホールと、ハーバード・クラブで、
室内楽のコンサートを行いました。

モーツアルトのカルテット。

スペインの作曲家、トゥリーナの小品。

シューベルトのクインテット。

クインテットで、第1チェロを弾いたのは、当時70才、
ボストン響のチェロ・セクション、4番目の席で弾いていた、カール・ザイスさんでした。

僕が60才になったら、
かなりクタビレちゃって、チェロはもう弾けないだろう・・・
若い頃はそう思っていたので、
70才のカールは「チェロ弾き人生」の模範のような人。すごい人だと思いました。

ところが僕は、60才になっても、元気バリバリ。
「なぁんだ、60ってこんなもんかぁ。」

しかし、日本の主要オーケストラには定年があり、
「60になったから、オーケストラの演奏はやめなさい!」と。

芸術活動に年齢制限・・・
年齢だけでバサッと切ってしまう制度は、どうもスッキリしません。

ボストン響には定年がありません。技術、体力、演奏意欲があり、
オーケストラ活動に支障がない限り、演奏を続けることが出来ます。

「オーケストラに定年があっても、音楽家に定年はない!」

60才の誕生日を境に、「札響首席チェリスト」の看板をはずし、

一匹狼としての活動は、13年になりました。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その20」

2010年10月11日

・・・「その19」森の中の一軒家の続きです。

広いリビング・ルームにあるプールで遊んでいた3才の次女が、
うつぶせの状態で、水面に浮いている・・・

服のままプールに飛び込み、娘を抱き上げると、
娘は眼をパチクリさせ、ケロリとしていました。

すぐ気がついて本当によかった・・・
気づくのが遅かったら・・・

ズボンとステテコは、ビショビショに・・・

ジョーはズボンを貸してくれましたが、ステテコは持っていませんでした。

アメリカの人は、ステテコやモモヒキは、はかないようですね。
コンサート前後の、着替えの時、
ボストン響の豪傑は、真冬でもズボンの下は、皆パンツ・イッチョウです。

さて、森の中でのディナー。

コップ一杯のオレンジ・ジュースとハヤシライス。

ディナーはこれだけ・・・

ビールもワインもなし!

アメリカの習慣では、自宅に招き、普段のままでもてなすのが、
最高のもてなし方・・と聞いた事があります。

ジョーは、僕たちを歓迎してくれたのでしょう。

でも、ビールぐらいは、飲みたかったな・・・

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その19」

2010年10月11日

ボストン響のコントラバス奏者、ジョー・ハーンさんのご家族と水族館見物をしたあと、
誘われるままに、森の中にある彼の家に行きました。

その場所は、ボストンの、どのあたりになるのか、全く覚えていません。

ボンネットにあいた、小さな穴から煙が吹き出ているオンボロ愛車、「オペル」で、
ジョーの車のあとをついて行くと、やがて森に入り、木を切り倒したあとにある、
1軒の大きな家に着きました。

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写真:

ジョーの家。家の縁に立っているのは、ジョーの奥さん。


広いリビング・ルームの中に、大人の膝ぐらいの深さの、子供が遊べるプールがあり、
子供たちは早速水着に着替え、遊び始めました。

ふと気がつくと、3才の次女が水面にうつぶせの状態で、浮いているではありませんか・・・

これは一大事!!!

僕は、プールに向かって一目散。

服のままプールに飛び込みました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その18」

2010年10月08日

ボストン滞在中、ボストン響メンバーとの楽しいお付き合い・・・
引き続き、記憶を掘り起こしてお伝えして行きましょう。

演奏旅行中のニューヨーク・・・
ハドソン川の観光に連れて行ってくれた、コントラバス奏者のジョー・ハーンさん。

彼はボストンのダウンタウン、ウオーターフロントにある、
「ニューイングランド水族館」にも誘ってくれました。

彼とは家族構成が同じで、共に小さな子供が2人ずつ。
皆で8人で行きました。

シンフォニー・ホールで待ち合わせ、約束した時間に行くと、
ジョーの家族はすでに来ていましたが、彼はニコリともせず、浮かぬ顔をしていました。

僕は、気にとめませんでしたが、水族館に向かう途中、

「ヒデ、今日からサマータイムになったのを知ってる?」

あっ!サマータイムか!・・・知らなかった・・・オレは時計を1時間進めなかった・・・

ジョーが、浮かぬ顔をしていた理由が、わかりました。
知らなかったとは言え、1時間待たせてしまい、申し訳ないことをしてしまいました。

遅れた理由がわかると、ジョーは、いつもの明るいジョーになりました。

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写真:
ジョー・ハーンさんのご家族と、僕の家族。
ジョーは、シャッター係りで、写っていません。

「ニューイングランド水族館」は、ジョーが言う通り、
ボストンで最も人気のあるアトラクションの一つで、深海の神秘的な雰囲気を伝える照明、
どでかい水槽の設置、6000匹以上の海の生物を見ることが出来る壮大な水族館でした。

大人も子供も楽しめる水族館。
ジョーのおかげで、本当に楽しい時間を過ごすことが出来ました。

「オレの家は森の中にあるんだ。少し遠いけど、ディナーに来ないか?」

森の中の一軒家・・どんな家だろう、、

ディナー・・うまいもんが食えるかな、、森の中で冷えたビール、、ワルクナイナ、、

水族館のあとは、ジョーの家に行くことにしました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その17」

2010年10月05日

親切で、温かなボストン響のメンバー。

日本フィルと、3回目の交換楽団員、
第1ヴァイオリン奏者の、シェルダン・ローテンバーグさんも、すばらしい人でした。

彼は、第2次大戦中、情報部の大尉だったそうですが、
若い頃は、優秀なテニスの選手でもあり、
母校のタフツ大学で、コーチをしていると聞きました。

何かあると、真っ先に飛んで来て説明してくれたり、
教えてくれたりしたのは、シェルダンでした。
僕の幼い娘2人は、「アンクル・シェルダン・・・」と、呼んで慕っていました。

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写真:シェルダン・ローテンバーグさんと、僕の娘たち。左は女房です。


コントラバス奏者の、ビル・ラインさんも、すばらしい人でした。
彼は、首席奏者のポルトノーイさんのパートナーで、副首席奏者でした。

日曜日のある日、彼は家に家族ぐるみで招待してくれ、
「ヒデは、きっと気に入るよ。」と、言ってご馳走してくれたのは、
スモーク・サーモンがたっぷりのサンドイッチでした。

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写真:左がビル・ラインさん。

僕が帰国して数年後、札幌交響楽団のコンサートが、
大阪フェスティバル・ホールで開催され、僕はそのコンサートに出演しましたが、
その翌日、来日中のボストン響のコンサートが同じホールで開催されました。

その時、ビルは首席奏者になっていて、
マーラーのシンフォニー第1番の第3楽章、
有名なコントラバスのソロを、感動的なすばらしい演奏で聴かせてくれました。

ボストンの素敵な彼の家、美しい奥さん、かわいい子供たち・・・

世界でトップ・クラスのボストン響、コントラバス首席奏者・・・、

すばらしい人生を歩んでいたはずのビルに、一体何があったのでしょうか・・・

その数年後、彼は、自ら拳銃でこめかみを撃ち、帰らぬ人となりました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その16」

2010年10月02日

ボストン響・・・きびしいスケジュールの中でも、
このオーケストラは、いつも温かい空気に包まれていて幸せでした。

シンフォニー・ホールに行くと、誰もが笑顔で迎えてくれ、
「奥さんは元気かい?子供たちは、大丈夫?」と、毎日のように声をかけてくれました。

ファゴットのマッソー・ルジェーロさんは、ヴァイオリンやチェロなど弦楽器の修理や、
弓の毛の張り替えが出来ます。
  
趣味で始めたそうですが、メキメキ腕を上げ、やがて実のあるサイド・ビジネスとなり、
オーケストラの弦楽器奏者にとって、彼はとても貴重な存在になったのです。

弦楽器の弓の毛は、馬のシッポで、
これを顕微鏡でみると、鋸の刃のようにギザギザになっていて、
それで楽器に張ってある弦を擦ると、程よく弦に引っかかり音が鳴るのです。

1974年、札幌交響楽団からお誘いがあり、東京から札幌へ移り住んでまもない頃、
北海道の東、太平洋岸にある「静内町」に住んでいる音楽好きの青年から、
「ぜひ、チェロを習いたい・・・」と申し出がありました。

彼は、月に2回ぐらい静内からレッスンを受けに来ていましたが、
ある日、静内の牧場主を口説いて、白馬のシッポを切ってもらい、届けてくれました。

そのシッポは、軽い悪臭を放っていましたが、
僕は、そのまま市内の楽器修理屋さんの所へ持って行き、弓に張ってもらいました。

切ったばかりのシッポは、弦に引っかかりがよく、やや荒い感じの音でしたが、
チェロの鳴り具合は良好でした。
新しいシッポは、鋸の刃のようなギザギザが、しっかりしているのでしょう。

シッポは、使っているうちに、摩擦で少しずつギザギザがなくなってくるので、
半年か1年ぐらい使ったら交換しなければならないのですが、
この新しいシッポは、いつもの倍ぐらい長持ちしました。

さて、ボストン・ポップスのシーズンが終わり、
タングルウッドに移る前、毛の張替えをお願いするため、僕はマッソーの家に行きました。

彼は、とても喜んでくれて、すぐに作業を始め、1時間ぐらいで毛の張替えは終わりました。

毛替えの料金を尋ねると、「これは、フレンド・シップだよ。」と言い、
差出したのは1枚の色紙でした。

「ヒデとの思い出に、これにサインしてくれないか・・・」

新しい毛を張った弓を受け取る時、彼のやさしい、温かな気持ちが心にしみて、
声をつまらせ、「thank・you」と言うのがやっとでした。

つづく。


プロフィール

プロフィール

土田英順
つちだ・えいじゅん。日本フィル、新日本フィル、札幌交響楽団の首席チェロ奏者を歴任し、ボストン響およびボストン・ポップス響でも演奏。現在はソリストとして札幌を拠点に活躍するかたわら、2007年には役者デビュー。国内のみならず「春の夜想曲~菖蒲池の団欒~」では海外公演も果たす。73歳にして初めてパソコンを購入し、ブログの新世界で弓を引く。

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