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ボストン交響楽団の思い出「その15」

2010年09月29日

今回も、ボストン滞在中の思い出話です。

アメリカでは車がないと、日常生活が不便極まりないです。

オレの車を使ってもいいよ・・・と言ってくれたのは、
2回目の交換楽団員、
第2ヴァイオリン奏者のローン・・・ロナルド・ヌッツェンさんでした。

彼が、貸してくれた車は、年式が1959年のオペルで、グリーンのライト・バンでした。
当時、10年前の年式でしたが、その車はかなり傷んでいました。

ボストンの気候は、四季がはっきりしていて、冬は雪になります。

雪が積もると、道路に塩をまいて雪を溶かすのですが、
それが車の塗装・本体を傷め、
そのオペルは、ボンネットとドアに小さな穴があいていました。

エンジンをかけると、ボンネットの穴からは、いつも煙が少し吹き出ていましたし、
ドアにあいた穴からは、冬には身を切るような、冷たい空気が容赦なく入り込んできました。

運転中、赤信号などで停車し、そのままにしているとエンストしてしまうので、
停車中は、いつも軽くアクセル・ペダルを踏んでいなければなりませんでした。

アメリカの車検は、年に1度あるのですが、
日本のようにお金も時間もがかからず、簡単なもので、
車を、ガソリン・スタンドに持って行くだけでよいのです。

期限が近づいたので、車検を取りにスタンドに行くと、
「前方のライトを点けなさい・・・」
「ブレーキ・ランプが点くかどうか、ブレーキ・ペダルを踏みなさい・・・」

当然、その2つはパスしたのですが、
「ボンネットから出ている煙を止めて来なさい。」と言われ、車検は取れませんでした。

別のスタンドに行ってみると、そこではライトの点検以外のことは何も言わず、
フロント・ガラスに新しい車検証明のステッカーを貼ってくれました。

ローンは、ボストン響の優れたメンバーでありながら、
弦楽器の修理・調整、、、車の修理・整備、、、
暖房器具の修理、、、など、なんでも出来る人です。

彼から借りたオペルも、彼独特の整備によるものです。

ガソリンは、必ず「チーペスト」という名の、1番安いガソリンを・・・
エンジン・オイルは、必ず〇〇(オイル名は忘れました)を・・・

「それ以外のものを使ったら、この車は使えなくなるよ・」と、彼から言われていました。

行きつけのガソリン・スタンドは、
家の近くにある、ギリシャから来た、イケメンの若い男が経営しているスタンドでしたが、
そのお兄チャン、ガール・フレンドとデイトが忙しくて、あまり働かないのです。

カノジョを助手席に乗せて、市内を走っているのを、2~3回見かけました。

エンジン・オイルを交換する時期が来たので、オペルをそのスタンドに持って行きましたが、
3~4日預けて置いても、オイルを交換せず、僕の車はほったらかしなのです。

数日後には、タングルウッド音楽祭に参加するため、引越ししなければなりません。
車なしでは困るので、そのスタンドでオイル交換は止めて、
タングルウッドに行ってから交換することにしました。

タングルウッドでの住まいは、
ボストン響が借りてくれた、湖の湖畔にある白いコテージでしたが、
コテージの近くにガソリン・スタンドがあり、
そのスタンドは、80才代の兄弟2人だけで、経営しているスタンドで、
彼等はコテージのオーナーでもありました。

ベテラン・スタンドマンは、
「〇〇はないが、もっとよいエンジン・オイルがあるよ。それを使いなさい。」

ローンの忠告・・〇〇以外を使えば車は使用不能になるよ・・・

近くにスタンドはないし、迷いましたが、
ベテラン・スタンドマンの薦めたオイルを使うことにしました。

オペルは翌朝エンジンがかからず、廃車になりました。

親切なローンの忠告を守らなかった、愚かな自分に腹が立ち、情けなく、
ローンに対して、申し訳ない気持ちで一杯でした。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その14」

2010年09月24日

1970年、ボストン響の演奏旅行で、フィラデルフィアにも行きました。
ここでも、終演は22:30で、
翌日はハート・フォードで14:00開演のコンサートがありました。

日本のオーケストラと比べて、あまりにもハードなスケジュールに、
僕は、もう驚かなくなっていましたが、この時はハプニングの連続でした。

終演後、楽団員は23:00頃、貸切バスで会場を出て空港へ向かい、
深夜便で次の公演地、ハート・フォードへ移動するのです。

ハート・フォードは、コネチカット州の中心から、やや北、
マサチューセッツ州寄りにある都市で、
フィラデルフィアからの飛行時間は、1時間ぐらいだったと記憶しています。

この街の郊外には、19世紀のアメリカ文学を代表する作家達、
「トム・ソーヤーの冒険」や、「ハックルベリー・フィンの冒険」
などの名作を残したマーク・トウェインが住んでいた家・・・
この家は、部屋数が19室もある豪邸だそうです。

その家の向かいには、「アンクル・トムの小屋」で名声を得た、
ハリエット・ビーチャー・ストウが住んでいた家があります。

さて、ハート・フォードへ移動する晩、フィラデルフィアは、運悪く悪天候でした。
空港で、天候の回復を待ってから出発しましたが、飛行機は揺れに揺れ、
ハート・フォードの空港に到着したのは、予定の到着時間より大幅に遅れていました。

ボストン響は飛行機移動の時、楽団員は2機に分かれて搭乗します。

第1ヴァイオリンは18人いるので、9人ずつ。
チェロは11人いるので6人と5人ずつ、というように・・・

ホテルにチェックインしたのは、午前3時頃でした。

フロントで部屋のキーを受け取り、疲れ果て、ヨロヨロと部屋にたどり着き、
ドアを開けて電気のスイッチを捜していると、突然暗闇の室内から、

<Who・are・you?>(誰だ!!お前は!!)と、ドスのきいた、しわがれ声が・・・

あり得ない!!!

疲労のあまり、オレは気が狂ったか!!!

廊下の明かりで、自分の部屋のキーを見ると、僕の部屋は別の部屋でした。
部屋が違うのに、ドアは開いてしまったのです。

僕も仰天しましたが、部屋の主は、もっと驚いたでしょう。

僕は、あわてふためき、シドロモドロになり、
「部屋を間違えました・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
と、姿が見えない部屋の主に向かって平あやまり。

部屋を出ようとすると、今度は「グンナ~イ」と、やさしい声が返ってきました。

多分、彼はボストン響のメンバーだったのでしょう。
僕の下手くそなシドロモドロの英語を聞き、
このそそっかしい男はヒデだ・・・と、わかり、安心したのでしょう。

つづく、

ボストン交響楽団の思い出「その13」

2010年09月20日

今回も、ボストン響、ニューヨークで終わる1週間の演奏旅行話の続きです。

リンカーン・センターにある「エイヴァリー・フィッシャー・ホール」で、
コンサートを行った翌日、ボストン響は「カーネギー・ホール」でコンサートを行いました。

このホール、1891年のこけら落としを飾ったのは、チャイコフスキーでした。
78年前に、チャイコフスキーがここで指揮をした・・・そう思うと、
ステージに立った時、僕は身体がゾクゾクするような興奮をおぼえました。

映画「カーネギー・ホール」では、このホールを舞台に、世紀の巨匠達が登場しましたが、
その中で、チェロのグレゴール・ピアティゴルスキーには、ホレボレしました。

純白のドレスを着た、美しいハープ奏者数人に囲まれて、
チェロの名曲、サンサーンスの「白鳥」を弾くピアティゴルスキーはカッコよくて、
「チェロ弾きの中のチェロ弾き」、という感じでした。

さてボストン響、ニューヨークで終わる1週間の演奏旅行。
最終公演会場は、「カーネギー・ホール」。

20:30開演、22:30終演。

24時間営業している店が多く、一晩中明るく、「夜がない街」と言われるマンハッタン。
終演後、楽団員達は、1週間連日の公演の緊張がほぐれ、
マンハッタンでおいしい料理、
ビールやワインなどで、ゆっくり楽しむのだろう・・・と、誰もが思います。

ところがどっこい・・・
そうは、問屋がおろしません。

終演後、「カーネギー・ホール」の前には、3台の貸切バスが・・・

楽団員は、ステージ衣装の着替えなどが済み次第バスへ!

バスは23:00頃出発し、マンハッタンからは1番近い、
クイーンズの北に位置している国内線専用空港、
元ニューヨーク市長の名を冠した「ラ・ガーディア」空港に向かい、
深夜ボストンに帰ります。

ボストンのダウン・タウンの東にあるローガン国際空港に、
飛行時間1時間ぐらいで到着すると、
日付はとっくに変わっているし、この時間、公共の交通機関は運行していません。

空港から自宅までは、タクシーを利用するしかありません。
住まいが近い者同志が2~3人で1台のタクシーに乗り、帰宅するのですが、
僕は、いつも第1ヴァイオリン奏者の、ハリー・E・ディクソンさんと一緒でした。

彼は、ポップスのシーズンになると、常任指揮者アーサー・フィードラーが休む時に、
フィードラーに代わって指揮をする・・・器用で実力者でもありました。

彼はタクシーの中で、
「オレは今、本を書いているんだ。完成したら、日本でも出版するよ。」
と、言っていましたが、日本では1974年に、
「ドルチェで行きましょう。」・・・わが愛するボストン交響楽団の30年・・・
を、出版しました。
僕が帰国して、4年後のことでした。

この本には、ボストン響の歴史、シンフォニー・ホールのこと、歴代の音楽監督、
様々な痛快なエピソード、当時の楽団員の事、タングルウッド音楽祭・・・

世界に誇る名門オーケストラについて、ベテラン・オーケストラ・マンが、
ご自身の体験にもとづいて綴った、とても貴重で興味深い本です。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その12」

2010年09月15日

最終公演地がニューヨーク。
ボストン響、1週間の演奏旅行話の続きです。

金曜日の夜、ニューヨークのリンカーン・センターにある、
「エイヴァリー・フィッシャー・ホール」でコンサートが終わるとホッとした気分になります。

翌日の公演は、同じニューヨークの「カーネギー・ホール」なので移動がないし、
ボストン響は、ボストンでリハーサルを終えると、
演奏旅行中、リハーサルを一切やらないので、
翌日の開演時間、20:30までフリーになるからです。

何よりも、翌朝早く、バスに乗り込まなくてよいし、
眠りたいだけ眠れるのが嬉しいし、こういう時は、少しぐらい飲みすぎてもOKです。

口には出さなくても、楽団員の心の中は皆同じ。

楽団員は、終演後ホテルに近いレストランに、三々五々集まって来て、
ワインに食事、会話がはずみ、笑い声が絶えず、
ついさっきまで、しかめっ面をして演奏していた人物とは、別人のようになってしまいます。

楽団員のホテルは、セントラル・パークの南側、7番街57丁目にある、
「ホテル・ウェリントン」と、その向かいにある「パーク・セントラル・ホテル」でしたが、
僕は、「ウェリントン」に宿泊していて、
そのホテルは「カーネギー・ホール」の南隣でした。

すぐ近には、「ちんや」という日本料理の店があり、
レストランで飲みたりないと、その店に1人で行き、満足するまで飲みました。

ヒデが1人でどっかへ行っちゃった・・・

心配したヴァイオリンのローン・・・ロナルド・ヌッツェンさん(2回目の交換楽団員)と、
ヴィオラのボブ・・・ロバート・バーンズさんが、深夜、僕を捜しに店に来てくれました。

このように、ボストン響の楽団員は、本当に親切な人ばかりで、
心配をかけて申し訳ない事をしてしまいました。

定期シーズン中、3回訪れたニューヨークで、
トランペットの、ジェラルド・ゴーガンさんは、
一流の日本レストランに連れて行ってくれて、
ビーフの鉄板焼きを、ご馳走してくれました。

とろけるような、やわらかいビーフを角切りにしたものを、
目の前にある鉄板で、自分で好きなように焼いて食べることが出来る・・・
至福のひとときでした。

コントラバスの、ジョー・ハーンさんは、ハドソン川の観光場所に案内してくれて、
屋台でコカコーラとハンバーガーを買ってくれました。

ヴァイオリンのローン・・・ロナルド・ヌッツェンさんは、映画に・・・
ヴァイオリンのシェルダン・ローテンバーグさん(3回目の交換楽団員)は、ショウに・・・

夜には、カーネギー・ホールでコンサートがあるのに、
皆が、かわるがわる遊んでくれたり、ご馳走したりしてくれました。

大きな不安をかかえて、ボストン響に来ただけに、
皆さんの温かさが心にしみました。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その11」

2010年09月11日

1969年9月から、翌年3月までの定期シーズン中に、
ボストン響は、各地を数ヶ所回ったあと、
ニューヨークで終わる1週間の演奏旅行を3回行いました。

楽団員は、月曜日の朝、シンフォニー・ホールに集合し、
3台の貸切バスで空港に行き、飛行機で移動することもあり、
開催地、移動距離によっては、そのままバスで移動することもありました。

3台のうち、2台は禁煙車、1台は喫煙車で、
アメリカでは、40年も前からタバコ対策は考えられていました。

1つのオーケストラが貸切バス3台も?
楽団員は多いし、目的地に到着すれば、コンサートが待ち受けているので、
移動中は、楽団員がゆったり出来るように配慮しているのでしょう。

コントラバス奏者の中に、大相撲の山本山関のような巨漢がいて、
1人で2席占領し、リクライニングをいっぱいに利用してやっと身体が座席におさまる・・・
と、いう人もいました。

彼は髭をはやし、無口でおとなしく、いつも笑みを浮かべて葉巻をプカプカやっていました。

彼のあだ名は、TINY(ちっぽけな・とってもちっちゃい)でした。

金曜日の午後にニューヨークに入り、夜には、セントラル・パークの西側、
リンカーン・センターの中にある、
「エイヴァリー・フイッシャー・ホール」でコンサートがあり、
翌日の土曜日には、そのホールから地下鉄でひと駅、
世界中の演奏家にとって、憧れのステージ、カーネギー・ホールでコンサートがありました。

「エイヴァリー・フィッシャー・ホール」は、
客席数2700を誇る近代設備の整ったホールです。
1962年に完成当初は、音響が悪いと酷評されたホールですが、
エイヴァリー・フィッシャーの支援によって、大改修されました。

実は、僕はこのホールでの演奏は、すでに体験していました。

ホールが完成した2年後の1964年に、ニューヨークで始まり、ホノルルで終わる、
50日間で34公演という、とてつもない強行スケジュールの、
日本フィル、アメリカ・カナダ・ツアー公演に参加していて、
その時の、オープニング・コンサートが、このホールだったのです。

ボストン響の話にもどりましょう。

金曜日にニューヨーク入りするまでに、
月曜日から連日移動・連夜のコンサートというハード・スケジュールのためか、
指揮者のウイリアム・スタインバーグは、体調不良を訴え、
ニューヨークでの2公演をキャンセルしてしまいました。

代わって登場したのが、マイケル・ティルソン・トーマスでした。
彼は現在、毎年札幌で開催されているPMF音楽祭にもたびたび参加しているので、
北海道のファンには、おなじみの指揮者ですね。

マイケルは、スタインバーグのもとで、
アシスタント・コンダクターとしてボストン響に在籍していたので、
楽団員は彼がどんな指揮をするのか、よく知っていましたが、
困ったことに、リハーサルが一度もないのです。

ボストン響は、演奏旅行に出ると、リハーサルを一切やりません。
すべて、ぶっつけ本番です。

きびしい状況の中で代役をつとめたマイケルは、見事な指揮ぶりで大成功を収めました。

このコンサートを契機に、マイケル・ティルソン・トーマスは、
ボストン響のアシスタント・コンダクターから、
アソシエイト・コンダクターに昇格したのです。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その10」

2010年09月07日

ボストン響の客演指揮者として登場し、2週間あまりボストンに滞在した小沢征爾さん。

あるコンサートのあと「ツチダ、一杯やろうか・・・」
と誘ってくれ、シンフォニー・ホールの近くのレストランに行きました。

席に着き、メニューを見ていると、店員がワインを一本持って来ました。

何もオーダーしていないのに・・・

二人がけげんな顔をすると、店員は店内の一角に目をやり、
「あちらのお客様からです。」

見ると、中年のご夫妻が、こちらを見ながら笑顔でご自分のワイン・グラスをかかげ、
乾杯の仕草をしていました。
おそらく、そのご夫妻はコンサートを聴いた帰りなのでしょう。

小沢さんは、ボストンでも超人気者。

彼の指揮ぶりが、
多くの人を惹きつけ、感動を与えるのは才能だと、言う人もいらっしゃいますが、
彼の才能は、自らの努力によって花開いたもので、僕は、彼は努力家だと思っています。

僕の、長いオーケストラ活動の中で、
僕が知っている限り、彼ほど勉強する指揮者に出会ったことはありません。
新しい奏法を駆使した複雑な新曲でも、楽団員の質問にテキパキと答え、
どんな大曲でもスコアの隅々まで勉強し、暗譜で指揮をする・・・

夫人によると、欧米のコンサートは、開演・終演時間が遅いので、
就寝も遅くなる・・・

それでも、明け方薄暗い中、ホテルの部屋で何か気配を感じて目が覚めると、
床にあぐらをかき、スコアをひろげて指揮の練習をしている夫の姿が・・・

小沢征爾!彼はまれにみる努力家なのです。

1969年。
ボストンでは、彼とすばらしい時間を持つことが出来ました。

それから30年。

僕は、東京、札幌と移り住み、62才になっていましたが、
その誕生日に、ファンの方々がお祝いのコンサートを開催して下さいました。

コンサート当日、キタラの控え室に入ると、
テーブルの上にお祝いのメッセージが・・・

IMG_0002.jpg

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その9」

2010年09月04日

僕がボストン響に在籍中、小沢征爾さんは客演指揮者の1人として、颯爽と登場しました。

彼は、2週間以上ボストンに滞在し、
2種類のプログラムで、8回のリハーサル、8回のコンサート、
2回のレコーディングを行いました。

プログラムの1つは、
武満徹:「ノベンバー・ステップス」、ウォルフ:「カルミナ・ブラーナ」

もう1つは、オール・ストラビンスキー・プロで、

「ペトルーシュカ」、「ヴァイオリン・コンチェルト」、
(ソロは、コンサート・マスターの、ヨゼフ・シルバースタイン)
3曲目は、「火の鳥」でした。

レコーディングは、
「ノベンバー・ステップス」と「ヴァィオリン・コンチェルト」以外の曲を録音し、
完成したLPレコードは、ドイツ・グラモフォンから全世界に向け発売されました。

レコーディングは、シンフォニー・ホールで行うのですが、
コンサートの時のように、ステージ上で演奏するのではなく、
一階の客席を取り払い、その場所で演奏して録音します。
ステージ上で演奏するより、
ホールの残響をうまく利用出来、よい音で収録出来るのだそうです。

レコーディングは、神経がすり減るような緊張が伴うので、僕は好きではありません。
ですが、ボストン響のレコーディングは、日本のオーケストラと違い、
高額のギャラが、給料とは別にレコーディングのギャラとして、楽団員に支払われるのです。

僕は、アメリカのミュージシャンズ・ユニオンに加盟していなかったので、
ギャラはもらえないと思っていたのですが、
交換楽団員だったので、ボストン響の正メンバーとしての仕事・・・
と、ユニオンに認められ、ギャラをもらうことが出来、ラッキーでした。


「カルミナ・ブラーナ」のレコーディング中のことでした。

この曲の中には、実に美しいソプラノの名曲があり、
その曲をフィリピン人の美貌・美声のソプラノ歌手が歌っていました。

レコーディングには、時間制限があり、
3時間(正味2時間、1時間は休憩)以内に終わらなければなりません。

この美しいソプラノの音楽は、「カルミナ・ブラーナ」全曲の中で、
何故かレコーディングを行う順序が最後になっていました。
残り時間が、少なくなったところで、ようやくこの曲のレコーディングに入ったのです。

1度歌ったところで、時間が来てしまいました。
録音スタッフは、きれいに録音出来た、と言い、
小沢さんも満足そうでしたが、彼女は自分の歌に満足せず、
「もう1度歌わせて・・・」「もう1度録音して・・・」と懇願しました。

ユニオンの規定なのでしょう。
オーバー・タイムになると、
楽団員全員にオーバー・タイム料金を、支払わなくてはなりません。

非情にも、時間が来てしまうと録音のやり直しは出来ないのです。

事情を知った彼女は、その場で泣き崩れてしまいました。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その8」

2010年09月01日

今朝、「その7」に関してコメントをいただきました。
コメント欄でお読みになられた方も、いらっしゃると思いますが、
この欄でその一部をご紹介し、お答えしたいと思います。

「・・オーケストラは、演奏だけではなく、
気持ちを1つにすることの方が大変そうですね。・・]

オーケストラで、美しいハーモニーを奏でるためには、
楽団員同志の心のハーモニーが大切です。
ですが、個性の強い音楽家が、80人~100人集まっているオ-ケストラでは、
各人、それぞれに主張があり、気持ちを1つにすることは至難の業です。

よい演奏をしたい・・・という思いは同じでも、
考え方や、方法が違うと、気持ちはなかなか1つになりません。

オーケストラは、本当に難しい世界だと思います。

「・・日本のオーケストラと、違いはあるのでしょうか・・」

ボストン響の場合。
前回、くわしくお伝えしましたように、
ボストン響のスケジュールはきびしいけれど、規則的なスケジュールです。
当然、生活も規則的になるから、体調を維持し易いのではないかと思います。

ボストン響専用のシンフォニー・ホール。
彼らは、自分たちのホールを持っているので、楽器を持ってあちこちウロウロする事がなく、
リハーサルでも、コンサートでも、
同じ場所、同じ音響のところで行うことが出来ます。
だから、「ボストン響の音」が作られるのです。

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ボストン・シンフォニー・ホール。2階席後部から撮影。

地下の楽団員控え室には、各自ロッカーを持ち、
ステージ衣装、楽器など保管出来るので、落ち着いて演奏に打ち込めます。

チェロ弾きは、皆チェロを2つ持っていて、
1つは自宅に、もう1つはロッカーに保管しています。
ですから、シンフォニー・ホールには、手ぶらで現れ、手ぶらで帰ります。

よい意味で個人主義の世界なので、気が進まないことは、NO!とはっきり言えるし、
対人関係で気を使うことは、ほとんどありません。

音楽監督は巨匠だし、客演指揮者は世界でトップ・クラスの人ばかり。

たいくつなリハーサルにうんざりしたり、
楽団員をイライラさせるようなヘボ指揮者は、1人も現れません。

指揮者がよいと、気持ちよく演奏が出来るので、ストレスが溜まることがありません。

(自然界では、どの動物にも天敵というものがいるが、
オーケストラでは楽団員の天敵は指揮者だよ。このことを忘れるな!)
・・・あるベテランのピッコロ奏者の言葉。

思い浮かぶままにお伝えして見ましたが、どれも日本のオーケストラにはないことです。

1969年~70年当時、60才代の楽団員が10数名在籍していたと記憶していますが、
50年勤続。70才。
バケモノのような豪傑が2人もいました。

息の長いオーケストラ人生。

お伝えしたような事が、関係しているのかな・・・

つづく。

プロフィール

プロフィール

土田英順
つちだ・えいじゅん。日本フィル、新日本フィル、札幌交響楽団の首席チェロ奏者を歴任し、ボストン響およびボストン・ポップス響でも演奏。現在はソリストとして札幌を拠点に活躍するかたわら、2007年には役者デビュー。国内のみならず「春の夜想曲~菖蒲池の団欒~」では海外公演も果たす。73歳にして初めてパソコンを購入し、ブログの新世界で弓を引く。

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