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ボストン交響楽団の思い出「その7」

2010年08月29日

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写真:ボストン・シンフォニー・ホールとボストン響。(1969年)

1900年に建設された、ボストン響の専用ホール。座席数、2、631。

音楽監督:ウイリアム・スタインバーグ。
コンサート・マスター:ヨゼフ・シルバースタイン

チェロ・セクション4列目、手前がステファン・ゲ-バー、奥が僕。

ボストン響は、9月に新しいシーズンが開幕し、翌年3月までの定期シーズンでは、
同一プログラムで、週4回のコンサート。(金、土、火、木)
週4回のリハーサル。(火、水、木)・・(水曜日は2回)

コンサートは毎回満席で、入場者数は、2、631席×週4回=週10、524人。

月にすると、10、524人×4週=42、096人になります。

4月から5月にかけての2ヶ月間は、
同じメンバーで、ボストン・ポップス・オーケストラと名前を変え、
ポピュラーな音楽を中心にしたコンサートになりますが、
この時は、飲食付きのコンサートのため、一階席を取り外し、
テーブル席になるので、座席数は2、345になります。

ボストン・ポップスは、月曜日から土曜日まで、週6回のコンサート、
午前中は、リハーサル、またはレコーディング。

それが8週間続くので、疲れ果て、生きた心地がしません。

当時、ボストン響は、ドイツ・グラモフォンと契約していて、
定期シーズンの月曜日は、LPレコード制作のためのレコーディングがありました。

レコーディングは、10:00~13:00までと、15:00~18:00まで、
3時間単位で2回行いましたが、
3時間の中で、15~20分ぐらいの休憩を3~4回とり、
合わせて1時間の休憩を楽団員に与えなければなりません。

指揮者は、その休憩中にプレイ・バックを聴き、
演奏面に問題があると、その部分の録音を、し直すのです。
したがって、1日のレコーディングの時間は、正味4時間と言う事になります。

レコーディングのない日は休日になりますが、
それでも、スケジュールのきびしさは、日本のオーケストラの比ではありません。


このような、きびしいスケジュールの中、
ある朝、リハーサル前に、全楽団員の前で2人の楽団員が表彰されました。

1人は第1ヴァイオリンの4番目の奏者。
1人は、チェロの4番目の奏者。

このお二人は、その年70才になられましたが、20才の時ボストン響に入団されたので、
勤続50年となり、その栄誉を称えた表彰で、金の腕時計が授与されました。

表彰されたからといって、お二人はそこで退団するのではなく、
その後も現役を数年続けられました。

ボストン響に定年はなく、
高齢になっても健康で、演奏活動に支障がない体力と、演奏技術を保っていれば、
楽団員として、活動を続けていく事が出来ます。

息の長いオーケストラ人生。
年間200回を超えるコンサート。
このハードなスケジュールをこなす体力、
その源は、一体何なのでしょうか・・・

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その6」

2010年08月26日

釣り場は、ボストンの南、ケープ・コードの海岸でした。
到着すると、そこには男が1人いるだけでしたが、
その男は、浜から離れた海上でボートに乗り、獲物を狙っていました。

危険だなぁ~、波でボートが転覆したら、どうするんだろう・・・
防寒用に衣服をたくさん着込んでいるし、無謀なことをするものだ・・・

ベラは、そんなことにはおかまいなしに、手際よく釣りの準備をすすめ、
生きのいいニシンをつけた長い釣竿を僕に手渡すと、
「ヒデ!いけ!」と、はっぱをかけてくれました。

釣竿から糸がどんどん伸びて行くので、ニシンは、沖へ沖へと泳いで行くのがわかります。

適当なところで糸を止め、サケが食いつくのをじっと待ちます。

ベラは、浜で獲物がかかるのを待っていましたが、
しびれをきらしたのか、海の中へ入っていきました。

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二人共、手ごたえがありません。
今日は、ダメか・・サケが産卵に来ないのか・・と思っていると、
突然、何とも言いようのない、スットンキョウな叫び声が聞こえました。

ボートに乗っていたオッサンです。
オッサンは、海面に姿を現した釣れたサケを、ボートに引き寄せると、
網ですくって捕獲しました。

そして、僕ら二人に対し、得意げにサケをかかげて見せ、
西部劇の戦闘シーンで、インディアンが発するような奇声を発し、はしゃいでいました。

ベラも僕も、まるでダメ。
僕ら二人は、サケに無視されたようです。

二人はションボリ帰途につきました。
ニシンがウジャウジャいる水路にもどって来ると、
ベラは、使わなかったエサのニシンを、水路の中に返しました。

釣り人のマナーなのですね。

ベラによると、このニシンの捕獲は、釣りのライセンスを持っている人だけが認められ、
ニシンの使途は釣りのみ・・ということです。

水路には、ウジャウジャいるんだから、
2~3匹網ですくって家に持ち帰り、晩酌のサカナにしようか・・・
などと、ふとどきな事を考えてはいけません。

つづく。
 


ボストン交響楽団の思い出「その5」

2010年08月23日

コントラバス奏者、ベラのお叱りは、精神的にこたえましたが、
彼は、感じたことをストレートに言っただけなのでしょう。

不安をかかえてボストン入りした僕が、神経質になり過ぎていたのかも知れません。

その後、彼は友好的で、晩秋のある日、釣りに誘ってくれました。
サケの1本釣りです。

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写真:着物姿の女性は、女房です。そのうしろ右がベラ。向かい合っているのが僕。
ベラと僕の間にいるのは、2回目の交換楽団員、ヴィオラのジョージ・ハンフリーさん。

定期シーズン、ボストン・ポップスのシーズンが終わり、
演奏活動の場がタングルウッドに移る前に、
ボストン響は、僕のために送別会を開いて下さいました。
ボストン・シンフォニー・ホール2Fロビー。1970年。

ボストンは、アメリカ東海岸、大西洋岸の湾の奥にある都市ですが、
釣り場は、ボストンの南、同じ湾の中のケープ・コードの海岸で、
産卵で遠い海から帰って来たサケを狙うのです。

待ち合わせをした場所で、彼のライトバンに乗り換えしばらく行くと、
彼は、網と大きなポリバケツを持って、車を降りました。

降りた所には、3m幅ぐらいの水路があり、
その水路には、30cmぐらいの黒っぽい魚がウジャウジャいました。

ニシンです!!

ニシンは産卵に来たのでしょうか・・・

ベラは、サケを釣りに行く・・と言った・・でもこれはニシンだ!
ニシンを網ですくって家に持って帰り、塩焼きにでもするつもりか・・

10数匹でしょうか・・・ニシンを入れたポリバケツを持って、ライトバンにもどると、
ライトバンの後部に固定してある、大きな樽に水をたっぷり入れ、
そこへポリバケツの中のニシンを移し、
バッテリーを使って、樽のなかに酸素を送りました。

そうか・・・生きのよいニシンはサケのエサだったのか・・・

だが待てよ・・・
大量のニシンが産卵のために海岸に押し寄せると、海の色が変わる、
と聞いたことがあります。

人工の水路にニシンがウジャウジャ。
産卵のために来たニシンだとすると、話のつじつまが合いませんね。

確かにベラは「HERRING」(ニシン)と、言いました。

僕には、このつじつまが合わない話の説明が出来ません。
申し訳ないです。

生きのいいニシンを積んで、少し走ると、潮の香りがしてきました。

釣り場は近いぞ!

ボストン・ケープコードで、初体験のサケの一本釣り。

成果は如何に・・・

つづく。

訂正します。・・・「その3」で、シーズン開幕コンサートのプログラムを、
ベートーベン、シューベルトの他、
リヒアルト・シュトラウスの「ドン・ファン」とお伝えしましたが、
正しくは、
リヒアルト・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」でした。

思い違いで、ごめんなさい。訂正させていただきます。

ボストン交響楽団の思い出「その4」

2010年08月21日

シンフォニー・ホールの地下にあるコーヒー・ルーム。

初リハーサルの日の休憩時間に、
パートナーのスティーブに誘われて、コーヒーを楽しんでいると、
ハンガリーから来たコントラバス奏者、ベラが近づいて来て、
「ユー・プレイ・トゥ・ビューティフル。プリーズ・プレイ・モア・ラウド。」
と、叱られてしまいました。

スティーブのお叱りが、ジャブだとすれば、
ベラのお叱りは、もっときついボディ・ブロウ・・・といった、ところでしょうか・・

読者の皆さんは、「なんだ、それぐらいのこと・・・」
と、思われるかも知れませんが、
演奏家にとっては、精神的にこたえる一撃なのです。

40年以上前のことなのに、ベラの一言一句は、今もはっきり覚えています。

頭の中は真っ白になり、どうしたらよいのか、
わからなくなってしまいました。

初リハーサルが終った時は悲しく、
モヤモヤとした、スッキリしない気持ちで家に帰りました。

帰宅後は,練習するのも、チェロを見るのも嫌で、
すぐスコッチ・ウイスキーを、飲み始めました。

女房は、小海老の殻を一匹一匹丁寧にむいて、お皿にきれいに並べ、
鉄板焼きの用意をしてくれました。

そして、家の近くの小さなマーケットの中にある、
中国人が経営している魚屋で買って来た、
身が少しだけついているシャケの骨に塩をふり、
カマには塩をすり込んで焼いてくれました。

40年前のことですから、おそらくこの時代にペット・フードはなく、
当時のアメリカの人達は、これを犬のエサにしていたらしいです。
犬のエサは、僕の酒の肴に絶品でした。

その日、シンフォニー・ホールであった情けない出来事。

いつまでも、くよくよ考えていてもしょうがない・・・

今までにも、つらいことはあったじゃないか・・・

その都度、それを乗り越えて来たじゃないか・・・

考え、悩み、その結論はいつも同じだったじゃないか・・・

「練習するしかない!!!」

そうだ!!!「スティーブは、いい奴だ!彼に頼んで見よう。チェロを教えてくれ!と。」

その日に起きたつらい出来事が、スティーブに、弟子入りするきっかけになったのです。

つづく。

ボストン交響楽団の思い出「その3」

2010年08月18日

ボストンでの住まいは、市内のブルックラインという地区の、
閑静な住宅街で、シンフォニー・ホールまで、
車で15~20分ぐらいの便利な所でした。

給料は、月400ドル。家賃165ドル。
その当時、1ドル360円でした。
まぁ、なんとかやっていくさ。そんな気持ちでした。

ボストンに到着した翌日、ヴィオラ奏者の、ボブ・キャロルさんが、
初コンサートの楽譜を、アパートに届けて下さいました。

ボブは、初回の楽員交換で日本フィルに来た人で、
チェロのカプチンスキーさん同様、ソロ活動も行い、
ヘンデルのコンチェルト、リヒアルト・シュトラウスの「ドンキホーテ」のソロ演奏で、
堅実な技術、 豊かな音色、優れた音楽性を示し、
日本フィルメンバー、多くの聴衆に感動を与えました。

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写真:左端がボブ・・・ロバート・キャロルさん。
右へ、キャロル夫人、日本フィル指揮者・渡辺暁雄さん。

そのうしろ左、カプチンスキー夫人、
右へ、ディック・・・リチャード・カプチンスキーさん、僕。
前にいるのは、ディックの息子ジャン。

お二人の送別会、フジ・テレビ内、日本フィル練習場で。1967年。

僕のボストンでの初コンサートは、
ボストン響、1969年のシーズンの始まりでもありました。

プログラムの1曲目は、日本ではあまり演奏されない、
ベートーベンの序曲でしたが、曲名は忘れてしまいました。
2曲目、リヒアルト・シュトラウスの「ドン・ファン」、
そして、シューベルトの長大な、ハ長調のシンフォニーと続きました。

指揮者は音楽監督の、ウィリアム・スタインバーグ。
楽団員は、この巨匠に大変な尊敬の念をいだいていました。

初リハーサルは、シューベルトのシンフォニーから始まりました。

なんというすばらしい響きなんだろう・・・
艶があり、やわらかな響き、
大きな音でも、決してうるさくない心地よい響き!

感動と興奮で我を忘れてしまいました。


「ヒデ!!フォルテ!フォルテ!」
パートナーのスティーブの声に、我にかえりました。
 
ボストンでは、皆、僕のことを「ヒデ」と呼んでいました。

スティーブは、僕のおとなしい消極的な演奏が不満だったのです。

もっと、積極性を持って弾きなさい!!と、ジャブをくり出された感じでした。

彼等の楽器から流れ出る音は豊かで美しく、それに比べて僕の音は貧弱で、
カサカサ乾ききったように感じました。

とても彼等には、太刀打ち出来ない・・・
といって、今更、日本フィルにもどることも出来ない・・・

リハーサルは休憩になりました。

「地下にコーヒー・ルームがあるよ。コーヒーどう?」
スティーブが誘ってくれ、コーヒーを飲んでいると、
今度は、コントラバスの奏者から、痛烈なボディ・ブローをくらってしまいました。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その2」

2010年08月15日

ボストン響での演奏。
期待や喜びよりも、心には大きな不安が、のしかかっていました。

ボストンへの長旅は、5才と3才の幼い娘が一緒だったので、
サンフランシスコで一泊し、
翌日、ニューヨーク経由でボストンに入りました。
長時間の移動なのに、飛行機の中では不安で一睡も出来ず、
酒ばかり飲んでいました。

ボストン響と日本フィル。
格の違いは明白ですが、僕の実力で通用するのだろうか・・・
横綱と平幕ぐらいの差があるんだろうか・・・

考えなくてもよいことまで考えてしまい、
自ら不安な気持ちを、かきたてていました。

ボストンの空港には、ボストン響の楽団員、10数名が出迎えてくれ、
歓迎ムード一杯で嬉しい限りでした。

その中で、若い楽団員の一人が、
「スティーブです。あなたのパートナーです。」
と、笑顔で手をさしのべてくれたのも、嬉しいことでした。

スティーブは、チェロ・セクションの7番目の席、僕は8番目の席。
これから1年間、彼と並んでチェロを弾くわけです。

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写真:スティーブ・・・ステファン・ゲーバーさん。(右)

彼は数年後に、クリーブランド響の首席奏者のオーディションに合格し、
大活躍しました。

当時のアメリカでは、ボストン響、ニューヨーク・フィル、
シカゴ響、フィラデルフィア響、そして、クリーブランド響が、
ビッグ・ファイブと言われ、
その優れたオーケストラのひとつに、首席奏者として就任した事は、
彼が相当な実力者だったということです。

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写真:スティーブ・・・ステファン・ゲーバーさん。(左)羽田空港で。

クリーブランド響の日本公演。スティーブは、このオーケストラの、
新任の首席チェリストとして来日しました。

右の女性は女房です。

僕は、ボストン響に在籍中、年下の彼の教えを受け、
練習方法のアドバイスも受けました。

演奏旅行中も、空いた時間にホテルの彼の部屋にチェロを持って行き、
教えを乞いました。

レッスンが終わって、謝礼を差し出すと、
彼は「フレンドシップ!」と言って、
ガンとして、受け取りませんでした。

彼との出会いがなかったら、おそらく、今の僕はなかったでしょう。

つづく。


ボストン交響楽団の思い出「その1」

2010年08月13日

僕が、日本フィルハーモニー交響楽団に入団したのは、
1959年、22才の時でした。

それから9年。1968年に、このオーケストラの音楽監督は、
渡辺暁雄さんから、小沢征爾さんに代わりました。

小沢さんが、音楽監督になって最初にやった事は、
チェロとコントラバスの首席奏者を決めるオーディションでした。

当時でも、現在でも、こんな事が出来る指揮者は、
他にいないかも知れません。
楽団員の猛反発があり、トラブルになるからです。

小沢さんは、他の指揮者が出来そうもない事、やらない事、
楽団員の反発があっても、それを実行してしまう、
若い時から「すごい人」だったのです。

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写真:若き日の小沢征爾さん(右)と僕。

10人いた日本フィルのチェロ弾きは、
ブツブツ言いながら、全員がオーディションを受け、
公募もしましたが、外部から受けに来た人はいませんでした。

審査員は小沢征爾さん、コンサートマスターのルイ・グレラーさん、
創立以来、数年間このオーケストラで、
チェロのトップ奏者を勤めた、黒沼俊夫さんの3名でした。

オーディションは一週間前に発表され、
短い準備期間でしたが、自由曲だったので、
僕は、ドボルザークのチェロ・コンチェルトの第1楽章を弾き、
あとは課題曲の、ロッシーニの「ウイリアムテル序曲」の冒頭、
チェロのソロ部分を弾きました。

その結果、僕は翌年の1969年1月に首席奏者に就任しました。

その当時、日本フィルとボストン響の間で、楽員交換制度があり、
そのプログラムは66年に始まり、5年間続きました。

66年~67年、ヴィオラとチェロ。
67年~68年、ヴァイオリンとヴィオラ。
68年~69年、ヴァイオリン。
69年~70年。チェロ。
70年~71年。ヴィオラ。

上記の奏者が、両オーケストラの間で交換されたのです。

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写真:楽員交換最初の年に来日し、1年間演奏活動を共にした、
リチャード・カプチンスキーさん。

彼は、オーケストラの活動だけでなく、ソロ活動も行い、
リヒァルト・シュトラウスの「ドンキホーテ」、
ブロッホの「シェロモ」など、ソロ演奏でも活躍をしました。

曲がったエンドピンを使い、独特の奏法でした。
(チェロの下部、曲がったエンドピンに注目!)

僕が、首席奏者に就任した9ヶ月後、69年の9月に、
「ツチダ、おまえ行って来い。」と、小沢さんに言われ、
4回目の交換奏者として、ボストンに向け出発しました。

ボストン交響楽団・・・世界でトップクラスのオーケストラ。
クーセヴィッキー、ミュンシュら、
巨匠と共に歩んで来た名門オーケストラ。

そのようなとてつもなく、ものすごいオーケストラで、
青二才の僕は、やっていけるのか???

つづく。


チェロを弾く役者「その24」

2010年08月11日

劇団「TPS」は、過去7年間北海道各地で、
シアター・キャンプ・・・「上演を目的としない合宿稽古」を、
行って来ましたが、今年は「上演を目的とした合宿稽古」を、
7月上旬に蘭越町で行いました。

蘭越町の基幹産業は農業で、米、メロン、アスパラ、トマトなどが
生産されています。

合宿稽古に使われた、私設音楽ホールを運営する金子一憲さんは、
「他にないメロンを作ろう」と思い立ち、
この町で農業を営む「田中農園」の協力で、
「英順さんのチェロ・メロン」と題した、
大きくて、甘いメロン作りに成功しました。

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右:田中農園の奥さん。

20年以上前からメロンを生産している町内の田中農園。
ビニールハウスの一角に置かれたCDプレーヤーから、
チェロの音色が流れ、メロンはそれを聴いて育ちます。

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栽培されているのは、赤肉の「ルピアレッド」で、
第一弾は、7月下旬から8月上旬にかけて、すでに収穫され、
第二弾は、9月上旬に収穫し、音楽仲間やファンに、
限定販売するそうです。

メロンが、早朝から夕方まで聴いているのは、
僕の「初恋」というタイトルのCDで、
このアルバムに収録されている曲は、甘いメロディの曲が多く、
だから、メロンも甘くなる・・・と、大まじめに語る金子さんに、
僕は思わず笑ってしまいました。

また、金子さんは、
「人のやらないことをやろうと、遊び心で始めた・・
メロンのPRにもなれば・・」とも語っています。

お申し込みをなさると、
「英順さんのチェロメロン」と、書かれた箱に入れ、
送ってくれるそうです。

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左:田中農園の奥さん。

さて皆さん、24回にわたってお伝えしてきました「チェロを弾く役者」。
途中、ひょんなことから、小沢征爾さんとの思い出話になり、
ボストン交響楽団の話にもチョッピリふれました。

「チェロを弾く役者」は、ひとまずこの辺でお休みにして、
次回からはタイトルを、「ボストン交響楽団の思い出」に変え、
チョッピリでなく、本格的にお伝えして参ります。

ご期待ください。

つづく。


チェロを弾く役者「その23」

2010年08月09日

今回も、劇団「TPS」の話題です。
6月13日に初稽古。
7月上旬には、蘭越町で4泊5日のシアタ-・キャンプを行い、
8月上旬の公演に向けて、コツコツ作り上げて来た、
ノルウェーの文豪、イプセンの大作「ペール・ギュント」。

原作通りに上演すると、4時間以上かかるそうですが、
「TPS」公演では、2時間半に縮小されて上演され、
昨夜、8月8日に千秋楽の舞台を終えました。

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「ペール・ギュント」の一場面。

撮影:高橋克己。

僕は演技・セリフ共少しでしたが、
舞台に、ほとんど出っぱなしでチェロを弾きました。

公演二日目の本番前、僕は劇場近くのレストランで食事を済ませてから、
劇場入りしました。

受付の前を通ると、

「英順さん、帽子が届いていますよ。」

「えっ、帽子?・・・あっ!!!」
頭に手をやると、帽子をかぶっていません。

「たった今、若い女性が大慌てで持って来ましたよ。」

そうか・・・レストランで食事をした時、
脱いだ帽子を、そのまま店に置いてきてしまったのだ・・・

実はその帽子、大切な舞台衣装の一つだったのです。
前日の公演を観に来てくれたレストランの店員さんが、
僕の舞台衣装を知っていて、
「大変だ!こりゃ一大事!」とばかり、大急ぎで届けてくれたのでした。

そうそう、それから、
初日の前日、ゲネプロ(総稽古・通し稽古)の時でした。

ゲネプロは、本番と同じように衣装を着けて行うのですが、
僕は、茶色のベストを着るのを忘れてしまい、
稽古が終わって、指摘されるまで気がつかず、皆に笑われてしまいました。

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撮影:高橋克己。

公演3日目の朝。もう疲労はピークでした。
それでも劇場に行く前に、家で練習しようとバッグを開けると、

「楽譜がない!!!」

きのう夜遅く行った居酒屋に忘れたか・・・
いや、居酒屋で楽譜を出すはずはない・・
劇場に忘れてきたのなら、なくなる事はまずないだろう・・

劇場に着き、恐る恐るロビーの扉を開けて舞台上を見ると、
楽譜は僕を待っていてくれました。

ソウル公演では、舞台衣装のワイシャツを忘れ、
沖縄公演では、靴下を忘れ、
そのつど役者さんのご親切と、ご好意に救われてきましたが、
今回の公演でも、「トンマな英順」を演じてしまいました。

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カーテンコール。撮影:高橋克己。

つづく。


チェロを弾く役者「その22」

2010年08月05日

小沢征爾さんとの思い出話に花が咲き、
芝居の話が、どっかへいっちゃいましたね。

今回は、劇団「TPS」が、今年の7月2日から6日まで蘭越町で行った、
シアター・キャンプのことをお伝えしましょう。

このシアター・キャンプは、「TPS」のチーフ・ディレクター、
斉藤歩さんの発案で、7年前から深川、歌志内、札幌など
北海道内で行ってきました。

シアター・キャンプ・・・「上演を目的としない合宿稽古」。
今年参加したのは、斉藤歩さんと、19名の役者のほか、
ソプラノ歌手の後藤ちしをさん、僕も参加し総勢22名でした。

蘭越の山間に流れる日本一の清流、尻別川。
美しい自然に恵まれたこの町の一角に、築7年、
木造で、未だに心地よい木の香りが漂う、
80席ぐらいの音楽ホールがあります。
その名は「蘭越パーム・ホール」。

シアター・キャンプは、このホールで行いました。

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「蘭越パーム・ホール」右端、斉藤歩さん。

撮影:高橋克己。

大家族のような生活で、食事は自炊、貸し布団を持ち込み、
男性役者はホールで雑魚寝、
女性役者は隣接した別棟にある部屋を寝室にし、
風呂は、徒歩7~8分ぐらいの所にある、
ホテル「幽泉閣」の温泉を利用しました。

僕は、雑魚寝は苦手なので、「幽泉閣」に宿泊しました。

稽古、各自の創作発表、歌の練習などのほか、近所の農家を訪れ、
農作業の手伝いも行い、大自然の中で有意義に過ごしました。

キャンプで題材になったのは、
ノルウェーの文豪、イプセンの「ペール・ギュント」ですが、
この作品は、グリーグの音楽で、クラシック音楽ファンなら
誰でも知っている有名な作品です。

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斉藤歩さんと、新曲の打ち合わせ。

撮影:高橋克己。

シアター・キャンプ・・・「上演を目的としない合宿稽古」、
でありながら、実は「ペール・ギュント」の上演は、
この時すでに決まっていたのです。
上演しないわけにはいかなくなる、諸事情があるのでしょう。

6月13日に稽古が始まり、キャンプまで行った成果は如何に?

8月5日初日。8日千秋楽。4日間で5公演が、
新札幌のサンピアザ劇場で上演されます。

つづく。

チェロを弾く役者「その21」

2010年08月04日

1969年から、70年にかけて、
ボストン響の一員として演奏活動を続ける中で、小沢征爾さんとは、
一緒にコンサートをやったり、一緒に飲む機会がありました。

69年から71年までのボストン響の音楽監督は、
ウイリアム・スタインバーグでしたが、
この巨匠は、ピッツバーグ響と音楽監督を兼任していた上、
高齢でもあったので、ボストン響は2年後の音楽監督を物色していました。

有力候補は、ズビン・メータ。クラウディオ・アバド。
そして、セイジ・オザワの3名でした。

このことは、当時、このオーケストラで唯一の正団員日本人奏者、
ヴァイオリンの水野さんから聞いた事なので、
事実だと思いますが、小沢さんにこの事を伝えると、
「オレがボストンの音楽監督になんてなれるわけねぇよ。」

ボストン響は、若い指揮者にとって,
雲の上のような存在の、偉大なオーケストラだったのですね。

僕が、このオーケストラに在籍していた1年間に共演した指揮者は、
ウィリアム・スタインバーグ、クラウディオ・アバド、
カルロ・マリア・ジュリーニ、コーリン・ディビス、
マイケル・ティルソン・トーマス、レナード・バーンスタイン、
エーリッヒ・ラインスドルフ・・・

そして、ボストン・ポップスでは、アーサー・フィードラー。

共演すれば、震えるような感動を覚える指揮者達。
当時、若干34才、日本音楽界の「希望の星」
小沢征爾さんも、これらの指揮者達の中の一人でした。

ボストンに乗り込んで来た小沢さんは2週間滞在し、
8回のリハーサル、2種類のプログラムで8回のコンサート、
2回のレコーディングを行いました。

超多忙なスケジュールでしたが、
土曜日のコンサートの終演後、彼は我が家に来てくれました。
彼は、ボストンでも人気者で、終演後はファンのサイン攻め。
コンサートの終演が22:30頃だったので、
サインを終えて我が家に着いたのは、深夜12時頃でした。

奥さんのほか、その日、武満徹さんの「ノーベンバー・ステップス」の
ソロ演奏をした、琵琶の鶴田さん、尺八の横山さんも
お見えになりました。

我が家に着いた時、小沢さんは「ツチダ、これ。」
と言って、差し出したのは、ジョニウォーカー・ブラックでした。

「中味はトリスじゃないぞ!」

これには、二人で爆笑してしまいました。

学生だった頃、
お金がなくて、スコッチの空き瓶に安いウィスキーを入れて
飲んでいた事を思い出したからです。

宴は延々と続きました。

次回は、「その15」でお約束した、劇団「TPS」が、
今年7月初旬に、蘭越町で行ったシアター・キャンプのお話です。

つづく。


プロフィール

プロフィール

土田英順
つちだ・えいじゅん。日本フィル、新日本フィル、札幌交響楽団の首席チェロ奏者を歴任し、ボストン響およびボストン・ポップス響でも演奏。現在はソリストとして札幌を拠点に活躍するかたわら、2007年には役者デビュー。国内のみならず「春の夜想曲~菖蒲池の団欒~」では海外公演も果たす。73歳にして初めてパソコンを購入し、ブログの新世界で弓を引く。

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