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チェロを弾く役者「その20」

2010年07月31日

1969年8月下旬、僕はボストン交響楽団と、
ボストン・ポップス・オーケストラで演奏する機会に恵まれ、
家族を連れてアメリカに渡りました。
二人の娘は、5才と3才でかわいい盛りでした。

当時は、1ドルが360円でしたが、
僕のボストン滞在中の給料は、月400ドルで、
アパートの家賃が月165ドルでした。

ボストンで親しくなった、航空会社のボストン支社長の給料が、
月800ドルと聞いたので、僕の給料はその半分でしたが、
東京でも貧乏暮らしをしていたし、貧乏にはなれていたので、
さほど苦にはなりませんでした。

ボストン響のハード・スケジュールは、
日本のオーケストラの比ではなく、
定期コンサートが、
毎週火曜日、木曜日、金曜日、土曜日、週4回ありました。
その他、このオーケストラは、当時ドイツ・グラモフォンと契約していて、
LPレコードの制作がある時は、月曜日に録音がありました。

ボストン・ポップス・オーケストラのメンバーは、
ボストン響のメンバーと同じで、楽団の名前を変えただけすが、
4月から5月になるとポップス音楽中心の演奏活動に変わります。

ポップスのシーズンになると、スケジュールはもうメチャクチャ。
毎週月曜日から土曜日まで、週6回のコンサート。

朝は10時から1時までリハーサル、またはレコーディングがあるので、
リハーサルが終わると一度帰宅して、ひと休みしてから、
再び夜のコンサートに出かけるのです。
日曜日以外は、毎日2度出勤というわけです。

住んでいたアパートから、シンフォニー・ホールまでは、
車で20分ぐらいでしたが、その中間ぐらいの所に、
ボストン・レッドソックスのホーム・グランド、フェンウェイ球場があり、
デーゲームがあると、朝のリハーサル後、フェンウェイ球場に立ち寄り、
メジャーリーグを観戦しました。
忙しい中で、とてもよい気分転換になっていました。
試合が終わると帰宅し、軽い夕食をすませて、夜のコンサートへ・・・

このようなハードなスケジュールに耐え、演奏活動を続けていたある日、
飛び上がらんばかりの嬉しい事がありました。

大きなダンボールの箱に、ぎっしり入ったインスタント・ラーメンが、
ニューヨークから届いたのです。

小沢征爾さんからでした。

ボストン市内のハーバード地区には、
日本食品を売っている店があるのですが、アメリカで日本食は高く、
400ドルの給料では、手が出ませんでした。

友を思う、彼の温かい気持ちに感謝しながら、
家族4人でラーメンをすすりました。

それは、何ものにも優るご馳走でした。

つづく。


チェロを弾く役者「その19」

2010年07月28日

前回に続いて、1970年9月、来日中のニューヨーク・フィルと、
日本フィルの間で行われたソフト・ボールの親善試合のお話です。

一塁塁審をつとめて下さった王さんのバッティングが見たい、、、

日米両オーケストラのメンバーの願いで、
王さんは、バッターボックスに立ってくれる事になりました。

左バッターボックスに入る前、独特の一本足打法のフォームで、
5~6回素振りを繰り返している間、
僕らヤジ馬は、ベンチの中で勝手なことを言い合っていました。

「ライトスタンドに放り込むかな、、、」

「いやぁ~、ソフトボールだから、そんなに飛ばないよ、、、」

「今、大スランプだけど、大丈夫だろうか、、、」

いよいよ勝負の始まり。かたずをのんで皆が見守る中、
1球目ボール。2~3~4球目もボール。

ニューヨークのピッチャーは、
バッターボックス内でかまえる王さんの迫力にビビッテしまったのか、
ストライクが1球も入りません。

フォアボール・・・王さんが一塁に歩きかけると、
両軍ベンチから
「勝負をやり直せ!やり直せ!」

再勝負となった1球目。今度は打ちごろのいいボールが来ました。
狙いすましたように、王さんはバットを振りましたが、
打球はボテボテのピッチャー・ゴロ。
王さん、一塁アウト!!!

「ボールがのろ過ぎて打ちにくいんじゃないのか、、、」

「これで、またタイミングが狂って、
益々スランプは深みに入るんじゃないか、、、」

僕らヤジ馬は、ここでも勝手なことを言い合っていました。

試合が終わると、全員が王さんに感謝の意を表し、
サインをお願いしました。

バット、ボール、着ているTシャツなど、皆それぞれでした。
最後に王さんの前に進み出たのは、小沢征爾さんでした。

小沢さんは、着ていたシャツを脱ぐと、
「ここに書いてくれ。」と、裸の胸を指さしました。

「それは、ちょっと、、、」躊躇する王さんに、
「かまわん、いいからここに書いてくれ。」

「世界のホームラン王」は、苦笑しながら小沢さんの裸の胸に、
「王貞治」と書いたのでした。

つづく。


チェロを弾く役者「その18」

2010年07月25日

1970年9月。
僕はボストン交響楽団と、
ボストン・ポップス・オーケストラでの一年間の演奏活動を終えて帰国し、
日本フィルの首席チェリストに復帰しました。

ちょうどその時、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団が、
来日していて、ニューヨーク・フィルと日本フィルは、
ソフトボールの親善試合をやることになりました。

場所は、プロ野球セントラル・リーグ、
現在、ヤクルト・スワローズの本拠地、神宮球場でした。

ニューヨークの監督は、
毎年札幌で開催されている、PMF音楽祭の創設者でも知られる、
世界の巨匠、レナード・バーンスタインさん。(故人)

バーンスタインさんの指揮では、
この年の4月にボストン・シンフォニーホールで、
ベートーベンの第9シンフォニーを演奏する機会があったし、
7月には、タングルウッドで、
世界各国から集まる学生で編成されるオーケストラ、
BMCO(バークシャー・ミュージック・センター・オーケストラ)で、
ブルックナーの第9シンフォニーを演奏した事があるので、
心に残る思い出の巨匠の一人です

小沢征爾さんは、ニューヨーク・チームの二塁手として出場し,
バッティングでは長打を狙わず、バットを短めに持って鋭く振りぬき、
クリーンヒットを連発していました。

日本フィルの監督は山本直純さん。(故人)

一塁塁審・世界のホームラン王・・・王貞治さん。

三塁塁審・一本足打法で王さんを育てた元巨人軍の荒川コーチ。

主審・荒川コーチの息子さん。

荒川さんは、野球選手としてすばらしい素質があり、
大きな期待をかけられた選手でしたが、眼に疾患があり、
野球界から身を引かざるを得なかった・・・
当時、そのように報道されていたと記憶しています。

僕は一塁手で出場しました。
守備につくと、王さんが傍にいるので、足がすくんでしまいました。

「今夜、後楽園でゲームがあるんでしょ?」

「ええ」

「お忙しい時にすみません。」

「いやいや、気分転換になりますから・・・」

王さんはこの時、絶不調・大スランプで、頬はこけ、眼はギョロギョロ。

気分転換・・・おっしゃるお気持ちは、わかるような気がしたし、
一日も早く王さんらしい豪快なバッティングに、もどってほしいと、
願わずにはいられませんでした。

試合は親善試合にふさわしい熱戦となり、
結局5対5の引き分けに終わりました。

試合途中、誰からともなく、王さんのバッティングが見たい・・・と。

王さんは、照れくさそうでしたが、
日本フィル・チームのピンチヒッターとして、
バッター・ボックスに立ってくれたのです。

日米を代表するオーケストラ・プレイヤー達の目の前で、
「世界のホームラン王」は、
どんなバッティングを見せてくれたのでしょう???

つづく。


チェロを弾く役者「その17」

2010年07月20日

小沢征爾さんは「喜怒哀楽」を、はっきり表に出す人でもありました。

「哀」に関するお話は、前回で彼との思い出話の一つを、お伝えしました。

日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者が、創立以来の渡辺暁雄さんから、
小沢征爾さんにバトンタッチされて、まもない頃だったと思います。

東京文化会館で、
小沢征爾指揮・日本フィルのコンサートがありました。

ゲネプロ(本番前の総練習)が終わり、
2階のレストランで軽い食事を済ませ、燕尾服に着替えるため、
楽屋に向かって地下1階の通路を歩いていました。
すると、突然、背後から見知らぬ一人の男が、
こちらに向かってものすごい勢いで走ってきました。

何が起きたんだろう・・・

と思っていると、そのすぐあとから、鬼のような恐ろしい形相をし、
長髪を振り乱した小沢さんが、その男を追いかけて来ました。

彼は、「ツチダァ~そいつを捕まえろぉ~」と、吠えました。

僕は、事情がわからないまま咄嗟にその男にしがみつき、
羽交い絞めにしました。

小沢さんは、かなり興奮していて、その男が持っていたカメラを奪い、
中のフィルムを抜き取ってしまいました。

そしてそのカメラを、荒々しくその男の胸に
たたきつけるようにして返し、男を解放しました。

「あの野郎!いきなり楽屋のドアを開けやがって!!!」
「いきなりシャッターを切りやがって!!!」

興奮さめやらぬ小沢さんは、
僕に向かって怒りをぶちまけました。

終演後、渋谷の「ひな春」という居酒屋で一杯やっていると、
日本フィルの事務局長から電話があり、これからそっちへ行くから
先程の件をくわしく聞かせてくれ・・とのことでした。

僕はありのまま事務局長に話しましたが、
日本フィル側から抗議しようにも、
相手はどこの馬の骨だかわからないので、抗議のしようがありません。

事務局長の僕に対する聴取は、相手の出方はわからないけれど、
何か問題になった時の備えだったのでしょう。

それにしても、トラブルがあった30分後には、
彼の指揮棒から流れる美しいモーツァルトのシンフォニー。

気分転換の早さ、どんな状況でも集中しなければならない時に、
集中出来る能力。

「すごい奴だなぁ~」
僕は彼に対して、尊敬の念を抱くようになりました。

つづく。

チェロを弾く役者「その16」

2010年07月17日

前回に続き、小沢征爾さんとの思い出話をしましょう。

1980年2月上旬。
知人から、有効期限が2月末で、札幌ー東京間往復の
格安の割引航空券をいただきました。

東京在住の両親にしばらく会っていないし、その航空券を利用して、
親孝行したかったのですが、スケジュールが無理であきらめました。

有効期限が切れた翌日、3月1日にオヤジは眠るように
この世を去りました。

遠くへ旅立つ前に、オヤジが僕を呼んだのではないか・・
そう思うと、悲しくて悲しくてたまりませんでした。

オヤジの死は突然でしたが、
小沢征爾さんのお父さんの死も、突然でした。

心の準備がないままの永遠の別れは、本当につらいものです。

親思いの小沢さんの悲しみは、大変大きなものでした。

お父さんが旅立たれてから、数週間後だったでしょうか、、、

東京・目白の教会で、ヴェルディの大作、
「レクィエム」のコンサートがありました。
死者のためのミサ。死者を祭るミサ曲。

小沢征爾指揮、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏。
当時、日本フィルの首席チェリストだった僕は、
もちろんそのコンサートに出演しました。

小沢さんは、どんな複雑な曲でも、どんな大曲でも、
すみずみまで頭に入れ、
暗譜で指揮をするのは、皆さんもご存知の通りです。

その日、ステージに出ると、
いつもはない譜面台が、置いてあるではありませんか・・・

「レクィエム」の演奏は始まりました。

曲が始まってまもなく、彼はボロボロ涙を流し、
手の甲で涙をぬぐいながら、指揮を続けました。
一曲目が終わった時、僕は見かねて彼にハンカチを差し出しました。

彼は黙ってハンカチを受け取り、涙をぬぐいました。

ハンカチを渡した時、
チラリと見えた譜面台の上にあったのは、楽譜ではなく、
やさしい眼差しで微笑んでいる、お父さんの大きな遺影だったのです。

小沢さんにとって、この「レクィエム」は、
お父さんのための「レクィエム」だったのでしょう。

つづく。

チェロを弾く役者「その15」

2010年07月13日

劇団「TPS」の旅公演。

「春の夜想曲(ノクターン)」は、2008年3月に札幌で初演し、
9公演。5月に韓国で6公演。7月に沖縄で2公演を行いました。

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思い出のソウル公演。
写真上、アルコ芸術劇場。

写真下、「春の夜想曲」の一場面。右は斉藤歩さん。
舞台に韓国語の字幕が・・・

撮影:高橋克己。


8月には、東京公演がありました。

役者として、東京で芝居の舞台に立つのは、初めてのことでしたから、
東京出身の僕は故郷に錦を飾る気分・・・
なんて言ったら、おこがましいでしょうか・・・

公演は、8月15日から19日までの5日間で6公演。

僕は8月14日に出発しました。
新千歳空港発:10:00。羽田空港到着後、
ホテルに寄る時間はなく劇場へ直行。
サウンド・チェック、、、稽古、、、

アタマがおかしくなりそうな、灼熱の東京。
きついスケジュール。

グチや文句をこれっぽっちも言わず、
常に明るく行動する役者の皆さんには頭が下がります。

公演があった「こまばアゴラ劇場」は、
渋谷と吉祥寺を結ぶ路線、井の頭線の「駒場東大前」駅の近くにある
小さな劇場です。

この劇場は、
一階が楽屋になっていて、二階に劇場がある構造になっていました。
楽屋から舞台の上手に出るには、エレベーターがあるのですが、
下手に出るには、
楽屋から、ハシゴのようなせまい階段を利用しなければなりません。

とても危険で、チェロと一緒では利用出来ませんでした。

僕にとって井の頭線は、なつかしい路線です。

母校、桐朋学園のオーケストラの練習は、毎週土曜日にあり、
練習は20:00に終わるのですが、
斉藤秀雄先生のきびしいご指導に、がっくり疲れ、ストレスはたまり、
練習後、求めるものは酒・・・

仲良しの小沢征爾さんと、京王線から井の頭線に乗り換え、
渋谷でひっかかり、「サン」という店の常連になりました。

店ではビールのほか、安いウィスキーを飲みました。

ある日店のマスターに、
「スコッチウィスキーの空瓶をくれないか、、」と頼み,
その空瓶に、おいしくない国産の一番安いウィスキーを入れ、
「気分だけでもスコッチだ!」
と言って、二人で楽しみました。

当時、住まいが川崎だった小沢さんは、
終電に乗り遅れると、洗足の我が家にころがり込み、
翌朝一緒に学校へ行きました。

僕も彼の家に遊びに行き、ご家族と一緒に飲みました。
自宅で歯科医を開業していた彼のお父さんは、大の酒好きで、
一緒にナベをつつき、酒を勧めてくれました。

「土田クン、今夜は泊まっていけよ、、、」
その翌日、「土田クン、もう一泊していけよ、、、」

口数が少ないお父さんでしたが、いつもやさしい笑みを浮かべ、
好きなだけ飲ませてくれ、2泊したこともありました。

その息子、征爾さんは親孝行・親思いで、友達を大事にする男。

僕が62才の誕生日に、札幌コンサートホール、
「キタラ」で、リサイタルを開催した時、
彼から、お祝いのメッセージが楽屋に届いていました。

「お互い、ゆっくりいきましょう。会いたい!
ビールのこと、おやじのこと、なつかしいです。」

短いメッセージでしたが、温かさが溢れていました。

芝居と無関係の話になってしまいましたが、
2008年「春の夜想曲(ノクターン)」、
5都市、23公演のご報告は、今回でオシマイにして、
次回から、3~4回小沢征爾さんの思い出話をお伝えし、
そのあとに、今月上旬に蘭越町で行われた、
「TPS」のサマーキャンプのことをお伝えします。

つづく。

チェロを弾く役者「その14」

2010年07月10日

今回は、再び「TPS」沖縄公演の話です。

7月の沖縄。
暑いのなんのたって、北海道の気候になれている身体には耐え難く、
発狂しそうでした。

おまけに、ハードなスケジュール。
役者の皆さんは、グチや文句を一切言わず、
黙々と仕込み(舞台作り)に精を出し、稽古に励み、
いいトシをしたオッサンは、若者の立派な態度に教えられる思いでした。

沖縄といえばここ!!!
そう。「美ら海水族館」。
21日の公演前に、希望者だけで行くことになりました。

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美ら海水族館前で。
TPS・チーフディレクターの斉藤歩さんと(中央)
劇団員、スタッフの皆さん。


ホテルと水族館の間は、高速道路を走って往復3時間。
17:00の開演時間に間に合わせるためには、
ホテルを朝7:00に出発しなければなりません。

僕は、泣き泣きパスすることにしました。

朝ゆっくり寝て体調を整え、チェロの練習をして、
舞台に備えることが、自分にとって最善策だと思ったからです。

僕以外は、全員が参加したそうですが、
役者の皆さんは、よく遊び、よく学び、よく働き、何事に対しても
積極的で、心身共にタフなことに、つくづく感心しました。


芝居は、ここ沖縄でも「春の夜想曲(ノクターン)」を、上演しました。

すでにお伝えしましたが、
舞台は、掘り炬燵がある季節限定のホテルの特別室。

掘り炬燵の下には秘密のトンネルが・・・

僕・・大酒飲みで、風のように適当な男・・その名「次郎さん」は、
秘密のトンネルを這いつくばって、  
掘り炬燵から登場する場面があります。

トンネルの中は、薄明かりがついていて、
進む方向はわかるようになっています。

ところが、公演二日目、
トンネルの中でモグラのように這いつくばっていると、
突然、真っ暗闇になってしまいました。

停電か?・・・いや、トンネルの上の舞台では、演技が続いている・・・
明かりはあるはずだ・・・
進路を間違えて、別のトンネルに入ってしまったか・・・

真っ暗闇。視界ゼロ。方角不明。

えぇぃ!イチかバチかそのまま進んでやれ!

なかばヤケクソになり、目くらめっぽう前に進むと、
布のようなものに触れました。暗闇の中で真っ黒な布。

その布をまくってみると・・・

目の前にお客さんが!!!

お客さん「・・・」、、(変なところから、変なヤツが出て来たな・・)

次郎さん「・・・」、、(しまった!こりゃまずい、元にもどろう・・)

僕は、まくりあげた黒い布をソッとおろし、
あとずさりして、薄明かりのある通路にもどる事が出来ました。

滑稽で、面白いと言えば面白い話ですが、これはやっぱり大チョンボ。
本番前は舞台衣装を忘れて迷惑をかける・・・
本番でもドジをやってしまう・・・

一生懸命やっているつもりでも、緊張感、集中力がたりないのだ・・・

こんな男でも、「TPS」の役者さん達は、
いつも温かく迎えてくれ、温かく支えてくれる・・・

甘えていてはいけないな・・・

その思いを強くして沖縄をあとにしました。


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つづく。

チェロを弾く役者「その13」

2010年07月06日

「TPS」の旅公演中、2度も舞台衣装を忘れ、
その度に、仲間の役者さんのご好意、ご親切に救われました。

忘れっぽく、そそっかしく、おっちょこちょいなのは、ずっと前からで、
今回は、札幌交響楽団に在籍していた時の事をお話しましょう。

札響コンサートが、札幌市内や、近郊で開催される場合は、
いつも自分の車でコンサート会場へ行っていました。

定期演奏会での事。時期は正確に覚えていません。
多分、1994年~95年頃だったと思います。

いつものように車で、会場の厚生年金会館(現・ニトリ文化ホール)へ
向かいました。

地下の駐車場に車を止め、後部座席からチェロを降ろそうとすると、

<チェロが無い!!!>

我が家を出る時は、
(1)ガレージから車を出す。(2)玄関前で車をいったん止める。
(3)家の中にあるチェロを取りに行き、後部座席に乗せる。
(4)出発。
このような手順なのですが、
この日は、(2)と(3)を忘れ(1)(4)だけで
スタコラ出発し、1時間も気がつかずにいたのです。

さぁ困った!!!
チェロ弾きが、コンサートにチェロを忘れて来た!!!
前代未聞の大珍事!!!

家に電話をしても、いるはずの女房は電話にでません。
もちろん、家に取りに帰る時間はない、、、

長い人生、困ったことはありましたが、こんなに困ったことはありません。

仲がよいチェロ弾きに、そっと打ち明けました。

「おい、オレ、チェロを忘れてきちゃったよ。、、」
彼は一瞬驚きましたが、次には吹き出してしまいました。

「笑っている場合じゃないよ。なんとかごまかす方法はないか、、、」

「野外コンサート用のチェロなら、舞台裏にころがっていますが、、」

「弦は張ってあるか?」

「はい。」

「音は鳴るのか?」

「・・・・・」

「う~ん、かまわん。この際、音はどうでもいい。
チェロの形をしてりゃいい。
棒振り(指揮者)に、バレないようにごまかそう。」

本番前のリハーサルは2時間です。

リハーサル前半の1時間、バレずにうまくいきました。
休憩になり、バック・ステージからロビーに向かう所に行くと、
顔面硬直した女房が、チェロを持って心配そうに立っていました。

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僕のチェロ。

ナポリの名工、ニコロ・ガリアノ作。

彼のお父さん、アレッサンドロも名工でしたが、貴族を決闘で殺し、
生まれ故郷から逃げ出さなければなりませんでした。
5年後にナポリに帰って来て、ガリアノ一家を創設しました。
(フランツ・ファルガ著、「ヴァイオリンの名器」)より。

撮影:高橋克己。


女房は僕を見つけると、「あなたぁ~、大丈夫?」

「う~ん、、、大丈夫じゃないけど、、、大丈夫だよ。」

なんだか、わけのわからないことを口走ってしまいました。

女房は、僕がチェロを忘れた事に気がついて、
自分の車に積んで持って来てくれたのです。

その後は自分のチェロで、そ知らぬ顔をして、何事もなかったように
チェロを弾き、めでたくコンサートは終わりました。

次回は、再び「TPS」旅公演です。

つづく。


チェロを弾く役者「その12」

2010年07月02日


ソウルと、ウィジョンブ。
12日間にわたる韓国2都市での、「TPS」旅公演は終わりました。

2ヶ月後の7月には、6日間で2回の沖縄公演がありました。
舞台作りなどの、先発組は7月17日出発。

僕は翌18日に新千歳空港を発ちました。

新千歳空港発、10:30。羽田空港乗り継ぎで、
那覇空港着、15:20。
到着後、ホテル・チェックイン、、、会場へ、、、、稽古。

かなりきついスケジュールです。
オーケストラで、こんなスケジュールを組んだら、
組合が騒いで大変です。

「これじゃきつくて、演奏できねぇよ。」

沖縄の公演も、「春の夜想曲(ノクターン)」でした。

この芝居、すでにご紹介しましたように、叔母と姪の物語。
厚木で病をかかえ、一人で暮らす叔母。
父に捨てられ、母とは死別し、結婚生活の夢破れ、
次々に襲いかかる不幸にもくじけず、北海道で一人たくましく生きる姪。

お互いに、身寄りのない二人の突然の再会から、
ストーリーは進んで行くのですが、
叔母役の金沢碧さん、姪役の宮田圭子さん、主役のお二人の演技と、
脇役陣の演技が一体となり、すばらしい舞台になりました。


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写真:左、金沢碧さん。右、宮田圭子さん。

撮影:高橋克己。


初日の本番の30分ぐらい前、楽屋で舞台衣装に着替えていると、
舞台で使う黒の靴下をホテルに忘れて来たことに気がつきました。

舞台衣装は燕尾服なので、黒以外の靴下をはいたり、
ハダシでやるわけにはいきません。
といって、黒靴下をホテルに取りに帰る時間はありません。

さあ、困った、どうしよう、、途方に暮れてしまいました。

その時、これぞまさに天の助け!

「近くに、100円ショップがあります。
ホテルで自転車を借りて来たので、ひとっ走り行って来ます。」

そう言って楽屋から飛び出して行った若い役者、
佐藤健一さんのうしろ姿に、
思わず両手を合わせ「神様・仏様・健一様」」、、、
とは、言いませんでしたが、感謝の気持ちは特大なものでした。

靴下は、開演に間に合いました。
ソウルでは、Yシャツを忘れ、今度は靴下。

小さくて大きな忘れ物。
今回も仲間の親切に救われました。

この、おっちょこちょいの忘れぐせは、直らないのでしょうか、、、

かつて、札幌交響楽団に在籍中のことですが、
まるで作り話のような、ウソのような、
とても信じられない、極め付きの忘れ物をしたことがあります。

次回は、いったん芝居からはなれて、そのお話にしましょう。

つづく。

プロフィール

プロフィール

土田英順
つちだ・えいじゅん。日本フィル、新日本フィル、札幌交響楽団の首席チェロ奏者を歴任し、ボストン響およびボストン・ポップス響でも演奏。現在はソリストとして札幌を拠点に活躍するかたわら、2007年には役者デビュー。国内のみならず「春の夜想曲~菖蒲池の団欒~」では海外公演も果たす。73歳にして初めてパソコンを購入し、ブログの新世界で弓を引く。

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