すぐ近くに来ていた松浦武四郎 -つづき-

2018年10月09日


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      〈恵庭神社遙拝所跡地; 漁太〉

松浦武四郎は弘化3年(1846)に恵庭を調査しており、『再航蝦夷日記』に「イザリブトに弁天社あり。」と記している。弁天はインド神話の河川神のひとつなので水辺に多いという。

弁天社はその後、稲荷を併せ祭って明治28年に春日神社となり、大正10年(1921)に現在地の恵庭中央に社殿を移した。

 ~『恵庭の百年100話』(恵庭昭和史研究会 1997年3月)より~

イザリブト(現・漁太)は漁川と改修前の千歳川が合流する地域で、かつて恵庭山中の木材と千歳川の鮭の移出地として幕府の勤番所が設置されるほどの要衝だった。

遙拝所はイザリブトから4Kmほど離れた農業地帯の現在地に社殿を移す時に設けられたのだろう。川縁の人々が手を合わせる姿が浮かぶ。

 ところで弁天社は誰が建立したのだろうか。

武四郎が恵庭を調査した頃の蝦夷地は幕藩体制の松前藩領から幕府直轄時代を経て再び松前藩が統轄することになった時代だ。

幕府が建立したという説と材木商が河川交通の安全を祈願したという説があるようだ。

この頃はアイヌ民族が和人の搾取や横暴により過去最大の受難を被った時代であり、武四郎は『丁巳日誌』等で悲惨な状況を克明に記録している。

幕府の建立にしろ商人の建立にしろ、社に詣でるアイヌの人々の姿は想像し難く、悲しい歴史を秘めている。

猿払村、音威子府村、羅臼町、洞爺村。自転車旅で松浦武四郎の足跡に何度が出会っているが、直ぐ近くにも来ていたことが意外だった。

"北海道命名150年"が先行するが、松浦武四郎のアイヌ民族に寄せた尊敬の念と幕府に救済を訴えた姿をこれからも辿ってみたい。

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   〈元旦にランニング初詣する現在の恵庭神社;中央〉

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