僕の好きな先生

2018年05月17日

長髪のK先生は国語の先生で中学の2年と3年の担任だった。ひとりひとりの解釈を尊重する先生だった。

炭鉱なのでヤクザまがいのグループがあって、そこの"親分と子分"とで遊びに行った独身寮の本棚に川端康成の本がびっしり並んでいた。10才しか違わないのに当時は凄いオジサンだなと思った。

卒業したばかりの大学ではバレーボールの選手で、放課後はジャージー姿でちよっとつまらなそうな顔をしていることもあったが、昼休みには気持ち良さそうに"親分"に肩を揉ませていた。

僕らの卒業と同時に高校の先生になって転勤し、その後、通信制の高校に務めた。どうしているかなぁと仲間で話が出て、クラス会を開いた。卒業して30年が経っていた。

普通高校にいた先生は新米先生の時に着たという緑色のブレザーで現れた。「高校に行ってからも沢山の教え子がいたが、中学は君たちだけ。大事に取っておいた。」と言いながら昔と同じ優しい眼差しの笑顔を見せた。その後、先生は道東の高校の校長になった。

何度か集まり、3年前に先生の古希を温泉で祝った。その夜の宴会で、生徒会長の選挙に立候補したのは先生から、「選挙は複数でやらなければならない。お前、出ろ。」と言われたからだと皆に打ち明けた。先生は昔の笑顔で聴いていた。何故、あの時そんなことを言ったのか分からない。

続いて、中学から社会に出たK君が、「先生はどうして俺たちみたいなワルばかり連れて天売島にキャンプに行ったんだ。」と質問が出た。「親から頼まれたんだ。」と初めて明かした。自分のテントで角サンを旨そうに飲んでいた。

新米の炭鉱の中学校の教師は難しいことだらけだったに違いない。職員と従業員の不条理な生活格差があった独特の社会故にドロップアウトしそうな子供達を救おうとしていた。どういうわけか先生はその中に私を引き入れていた。

「今度は80才の時ですよ。」と別れた。昨日(16日)、その打ち合わせで電話をして奥様から先生がつい最近亡くなったことを聞いた。所用で旭川から札幌に出ていて心臓で倒れ、帰らぬ人となった。まさかこの電話で・・・。絶句、愕然とした。

もう何も聞けなくなった。先生を囲んで皆が集まる機会も無くなった。今頃、俳句とパークゴルフに興じているのだろうか。人生で大きな影響を受けた先生のお一人だった。

忌野清志郎の『僕の好きな先生』を繰り返し聴いている。「君は馬橇の軋む音を聴いたことがあるか。」先生が残した文章の一節が涌いてくる。K先生、さようなら。

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